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歴史のゆらぎと再編 (岩波講座 現代 第5巻) 単行本 – 2015/11/21
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【執筆者】山下範久・赤上裕幸・土佐弘之・伊豫谷登士翁・小山哲・平野聡・松田素二・水内俊雄・福間良明・輪島裕介
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2015/11/21
- ISBN-104000113852
- ISBN-13978-4000113854
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2015/11/21)
- 発売日 : 2015/11/21
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 288ページ
- ISBN-10 : 4000113852
- ISBN-13 : 978-4000113854
- Amazon 売れ筋ランキング: - 203,118位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 66位社会学の論文・講演集
- カスタマーレビュー:
著者について
1960年、広島市生まれ。1984年 、京都大学文学部史学科卒業。1986年、同大学院修士課程修了。ミュンヘン大学近代史研究所留学後、1989年京都大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、現在は京都大学大学院教育学研究科教授。
『「キング」の時代―国民大衆雑誌の公共性』(岩波書店2002年)で第24回日本出版学会学会賞、第25回サントリー学芸賞を、『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書2004年)で第34回吉田茂賞を、『ファシスト的公共性―総力戦体制のメディア学』(岩波書店2018年)で第72回毎日出版文化賞を受賞。
土佐 弘之(とさ ひろゆき、1959年 - )は、日本の政治学者。専門は、政治社会学、国際関係論。
東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了後、東京大学東洋文化研究所助手、神戸女学院大学文学部助教授、東北大学法学部教授を経て、2004年から神戸大学大学院国際協力研究科教授。
カスタマーレビュー
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「リベラル21」(2017年5月3日(水)の文章)で、安倍政権の「状況」を簡単にまとめていますので、短く引用します。
「北朝鮮情勢の緊迫化を「千載一遇の機会」として利用し、一挙に軍事態勢を強化するつもりと見える。それはまた
国民の警戒心を煽り、強硬姿勢を打ち出すことによって国民世論を引き付けようとする宣伝作戦の一環でもある。
前回の拙ブログで、私は次のように指摘した。-- かねがね北朝鮮の脅威を強調して国内世論を操作してきた安倍
政権にとって、これほどの好機はない。アメリカのシリア攻撃は、安倍政権にとっては「森友疑惑」から国民の目を
そらす絶好の機会(神風)であり、かつシリア攻撃に乗じて北朝鮮批判の世論をさらに高め、一挙に軍事力増強を
実現する一石二鳥の機会が訪れたというわけだ。それはまた、低下し始めた内閣支持率を回復させるために、政策
の重点を内政問題から外交問題に転換させる一大契機としても認識されているに違いない。」
もう一点時事問題。北朝鮮問題で、何もかも霞んでしまいましたが、4月29日に「春の叙勲」とやらがありまして、何とあの
「アホ」の森喜朗がトップ当選ならぬ、「トップ叙勲」です。「特に優れた功労があったとして、桐花大綬章を元首相の森喜朗
さん(79)が受章する。」(朝日新聞デジタル 2017年4月29日)とのこと。何なんだ、これは! ですね。何の「功労」だ!
2020年東京オリ・パラの「代々木利権」か ? どれだけ税金を無駄遣いすれば済むのか、ですね。「悪い奴ほど良く眠る」
ではないですが、「悪徳政治屋」ほど金が集まるのでしょう。国民も舐められたもんです。
安倍晋三が、5月3日の憲法記念日に、日本会議等の連中に対して、ふざけたビデオ・メッセージを寄せたようです。また、
「間違った」情報をもとに、意味のない上に、恐ろしい言説を振り撒いているのでしょう。内容についての批判は、できれば、
『世界 6月号』の書評ででも行いたいと思います。
本書を、例によって、大量引用・コメント少量で、紹介します。
●「7 アフリカ史の可能性 松田素二」(P.175 ~ P.202)
本論稿の参考文献にも出ていますが、『新書アフリカ史』(宮本正興、松田素二編、講談社現代新書、1997年刊)は、それが出た
当時、アフリカ史も学ばなければと思って、買おうと思っていたのですが、結局、買いもせず、学びもしませんでした。本の厚さ
が、通常の現代新書の3倍くらいはあったと思います。
興味深い論稿ですので、多少長く引用します。
「八 現代世界におけるアフリカ史の再定位(1) -- アフリカ史の今日的必要性
グローバル化された世界の歴史は、世界を国家ごと、地域ごと、あるいは海や陸といった領域ごとに固定した単位で
捉えるべきではない、地球市民の共同体の学としてあるべきだという主張は、たしかに単位ごとに強要される内部の
均質性と外部に対する異質性のフィクションから解放され、より高次の帰属意識と市民意識を生み出すという点で、
まことに重要で心地よいメッセージではある。
しかし人類史の長い営みは、抽象的な共同性や帰属意識とは別次元の、生々しい人間の膨大な具体的な日常の生の蓄積
であり、そこには夥しい喜怒哀楽や筆舌に尽くしがたい残忍な加害と凄惨な被害がある。そしてそれらが、今日に
生きる人々の日常や現代の社会のあり方に大きく作用しているのである。そのことはアフリカという地域を考えると
よくわかる。「新しい世界史」の発想にしたがえば、そもそもアフリカという地域単位を想定した時点で、自他区分の
旧来の歴史観に屈服してしまうという。だが、アフリカは、たんなる地域単位でなはい。アフリカ大陸という地理区分
は、じつのところ、歴史におけるアフリカと同義ではない。それはこういうことだ。
そもそもアフリカとは何だろうか。多様な言語と多様な文化が互いに交流・混交する流動的で外延も定かでない塊りを、
アフリカという一つの「単位」として線引きする論理は、ヨーロッパが押し付けた「人種観」以外には存在しない。
つまり肌の色で人々を分類する思考こそが、アフリカというまとまりを認識することを可能にしたのである。ガーナ人
の歴史家、クヮメ・アピアは、アフリカという観念は一つの歴史的に形成された意味だと主張する。その意味とは、
奴隷交易のなかで、誰が奴隷とされて売り払われるのか、誰がその奴隷を買うのかという基準がつくられ、「それが
大西洋の一方の側にアフリカという観念をつくりだした」ことを指している(Appiah、2006)。
つまりアフリカという観念(意味)は、大西洋の一方の側からの一方的で暴力的な500年にわたる攻撃と破壊、200年に
わたる支配と抑圧という大きな人為的で組織的で具体的な行動によって構成され、その意味を日常のなかで強要され
受容し変容させてきた人々によって再構成され、そして両者が相互に絡み合うことを通して、今日のアフリカができ
あがったのである。そのことは、2001年のダーバン会議における議論の結末や2013年のマウマウ訴訟の和解の顛末を
みるとよくわかる。数百年にわたる大西洋奴隷貿易の責任とその行為に対する歴史的審判を求めたり、半世紀前まで
続いた植民地支配という過去の清算を、今、要求したりするとき、アフリカという「意味」(あるいは単位といっても
よいだろう)を抜きにしてそれを行うことは不可能だった。このような観点から、アフリカ史という発想は、今日に
おいても、いや不平等が一層構造化している現代世界においてこそ、強く求められているのである。
グローバル・ヒストリーにせよ、「新しい世界史」にせよ、旧来の歴史の刷新をはかる立場から、一国史(ナショナル・
ヒストリー)の評判は悪い。そもそも今日、国民国家という政体の評判はあまい芳しくない。近代市民社会という
西ヨーロッパ生まれのローカルな社会形態と生活形が必要とし発明したのが国民国家というポリティだった。そこには
共通のモノ(言語、伝統、財産)と共通のココロ(記憶、心性、アイデンティティ)からなる「国民になるための一覧
表」が用意され、フィクティブな国民文化を成立させた。そして、19世紀から20世紀にかけて西欧の世界制覇の運動
とともに、国民国家は地球表面を分断し尽くしたのである。しかしこの国民国家にも耐用年数が来たという声があがり
はじめた。国民国家という境界が、もはや人間の活動にとって桎梏になっているというのである。
したがってたとえば1994年にマンデラによって新生南アフリカが誕生したとき、彼のネーション・ビルディングの呼び
かけや真実和解委員会の活動は、一部の政治学者から厳しく批判された(阿部 2007)。それは人々に、周回遅れで
偏狭なナショナリズムを植え付けるものだというのであった。こうした新たな国民国家の誕生は、1970年代にモザン
ビークやアンゴラ、1980年代にジンバブエ、1990年代にナミビアやエリトリア、2011年に南スーダンとつづく、
まったく最近のホットな出来事である。そもそも「耐用年数」など過ぎようはずもない。また国民国家というポリティ
の性質についてみても、アフリカにとってそれが何であるのかを考える必要がある。西欧諸国のネーション・ステート
と異なり、アフリカにおける国民国家は、その存在とシステム・構造自体が、植民地支配の遺制である。植民地統治
によってアフリカを分割し、相互に分断させて「独立」させた経緯を考えるなら、独立後の政治単位としてこの遺制
以外にいかなる政体もあり得ない。そしてネーションが人為的に形成されていったのと同様に、植民地支配の過程で
「部族」も社会的政治的に「上から」固定され、地域生活も流動性を制限された境界内部で形成されてきた。こうした
アフリカ的(植民地的)状況のなかでは、国民も民族も地域もすべてフィクティブな単位なのであり、ある単位を否定
して別の単位を称揚したり、そもそも単位自体を否定して人々をアトム化したりする選択肢は意味をなさない。その
意味で、アフリカにおけるナショナルな枠組みと、それにもとづく歴史の構成は、そこで暮らす人々の生活の便宜を
基準にすればきわめて必要なものなのである。
九 現代世界におけるアフリカ史の再定義(2) -- 固定反転の意義
たとえば南アフリカというナショナルな単位やアフリカといった地域の単位を設定して歴史をとらえることは、たしか
に近代ヨーロッパが歴史を語る際に編み出した「自他区分」(それはおうおうにして序列化差別化から支配の正当化を
導く)の装置である。したがって「新しい世界史」の発想が批判したように、それはいかに「周縁から」を強調した
ところで「中心史観の裏返し」であることは間違いない。しかし、こうした「裏返し」は、差別と抑圧が歴史的に蓄積
された現場においては、「弱者の武器」として頻繁に活用されてきた窮余の策であることを忘れてはならない。前述
したサンゴールのネグリチュード運動もその一つだし、コバーやブーンの「アフリカ的自己」「部族的自己」もその
一例である。それらは、まず支配的な近代西欧の価値・基準を定めたあと、それらを反転させてアフリカ的価値と基準
を措定する。たとえば、ネグリチュードでは、理性と合理の西欧に対して、情動と非合理のアフリカを描き出す。
たしかにこれはたんに構造を反転させただけで、その構造自体は不変である。しかしこの誰の目にも明らかな乱暴な
「逆転」の対処法を敢然と擁護したのがサルトルだった(注8)。サルトルはこうした反転を、現に差別され排除
された黒人が自己を承認する窮余の営みとして認定し、「ネグリチュードは弁証法的進行の弱拍」と述べたのだった。
この反転は、ヨーロッパの横暴な支配に対して、ある時期のアフリカがやむを得ず採用した、否定的で消極的なしかし
必然的な選択だったからである。アフリカを歴史の単位として、今、析出する意義は、まさにそこにある。
おわりに
まとめよう。グローバル化時代における世界の歴史は、たしかに明確に区分され、偏狭で奇妙なそしてときに暴力的に
排除的な帰属意識を涵養する、これまでの「単位史観」から解き放たれるべきである。しかし、現代世界の不平等で
差別的な秩序を作り出した構造とシステムを免罪したり無視したりすることは誤りである。その意味で、アフリカと
いう「地域」はヨーロッパ世界から500年以上にわたって暴力的かつ体系的に歪められてきた。そして、重要なことは、
アフリカ地域に刻まれたこの歴史的歪みがいまだに清算されないままに、その歪みを内包したままで、現代世界の秩序
が形作られているということだ。アフリカに対するこうした歪みを直視したりそれを是正したりする営みは世界史的に
みて一貫して脆弱なものでありつづけている。このような仕組みが世界秩序のなかに埋め込まれているからこそ、
アフリカ地域に対する歪められた「認識」や「表象」は再生産され、それにしたがって現実が構成されているのである。
たしかにアフリカという地域はけっして自然でアプリオリな実体ではないし、その地域がときに自他区分を膨張させて、
(かつてヨーロッパがアフリカに行ったように)他の単位を貶めたり排斥したりする危険性はつきまとう。にもかかわ
らず、アフリカ地域は、外部世界からの数百年にわたる排除・蔑視の眼差しと支配と統治のリアル・ポリティクスの
なかで意味化され、そして外化された存在として認められる必要がある。なぜなら、こうした過去の理不尽な介入に
対して反撃する拠点として必要だからであり、外化された領域(アフリカという単位)内で生を営む人々は、その領域
を対象化し客体化するだけでなく、その領域に対して働きかけ、飼いならし、自身の生に内在化していくからである。
現代世界におけるアフリカ史の役割と可能性はここに存在しているし、アフリカ史の世界における貢献はここから
はじまるのである。」(P.194 ~ P.199)
「(注8)サルトルは、人種主義に反対するために、差別される側(黒人)が行う逆人種主義(黒人の方が白人よりも
人種的に優越している)の「反転」を「人種的反人種主義こそが人種差別撤廃に通じる唯一の道」であると
擁護した(サルトル 1964、165-197頁)。しかしこのサルトルの主張は、ファノンによって手厳しく批判
される。それは、「反転」という決断への批判ではなく、「反転」にともなう被差別の側の苦痛を、差別する
側の知性が堂々と代弁することへの違和感であり憤りの表明だった(ファノン、1970、92頁)。」(P.200)
●「6 中華帝国の拡大と「東アジア」秩序 -- 「天下」の記憶と多様性のはざまで 平野聡」(P.149 ~ P.174)
中国や中国の歴史に対する「毀誉褒貶」は、甚だしいものが多く、読む書物の選択は要注意です。毛沢東の失政が明らかな
「大躍進運動」や「文化大革命」に対するものですら、注意が必要でしょうから(特に日本では、他の国では知りませんが)。
本論考から、「中国」と「周辺地域」との歴史的(近現代の)関係が簡潔に記されている部分を、多少長く引用します。
「五 日本経由の近代化と「国民国家・中国」
・・・・・
しかし繰り返しになるが、清の版図の約6割の土地に住むチベット・モンゴル・トルコ系ムスリム・満州人は「華」へ
の思慕から皇帝に従っているわけではなく、彼らは漢字を知らない以上「中国」「中華」の意味を理解しようがない。
したがって、清の版図を近代国家として生まれ変わらせる際に、「中国」「中華」を国号として用いるという合意を
形成しないまま、単に中国ナショナリズムの立場から「清の版図は欧米との近代外交において China と呼ばれ、それ
を中国とする」という説明を一方的にするのであれば、手続き上きわめて大きな問題を孕む。
こうして清は、皇帝との個別の関係の束である同君連合から、特定の思想・価値の優越に重きを置く国民国家へと
変質し、対内的に新たな「勝者」となった「華」の立場が他の関係の論理を崩すようになった。確かに、朝貢国を
従えた「天下」「中華帝国」としての清は、日清戦争を最後に立場を失った。しかし内陸アジアの藩部との関係では、
まさに19世紀後半から20世紀初頭の清末にかけて、清は東アジアに基盤を置く近代的な中華帝国(どれほど中国が
否定しようとも、中国ナショナリズムの原風景において帝国主義国家と共通の思想的要素があったことは否定でき
ない。そこで、ここからはカギ括弧を外す)として立ち現れ始めた。
元々内陸アジアの藩部・非漢字民族は「中華」の観念も儒学も漢字文化も共有しないうえに、清の統治機構そのもの
も「華」が「夷」を包摂するものではなく、皇帝のもとで「華」と藩部は同格であった。したがって藩部の側と
しては、そもそも近代化の名の下で「華」が包摂を図ってくるのを受け容れる必要はないし、その過程が上からの
強圧的なものであるほど、それまでの満州人皇帝による「公正」な支配と比較して抵抗せざるを得ない。
六 民族問題にみる価値一元的「東アジア」の限界
この図式は、1911年の辛亥革命を境に中華民国・中華人民共和国という共和制国家に移行したのちも、基本的には
全く同じである。
既に1884年の時点でいち早く省制が施行された新彊では、北京の直轄管理のもとで漸進的な漢語教育・儒学教育が
始まっていたものの、当時は日清戦争の前であり、清の側には切迫感は薄く、その浸透度は緩慢であった。しかし
民国期以後、漢人軍閥の跋扈に対する不満が強まる中、ジャディード運動(ムスリム改革派運動)やソ連草創期の
ムスリム共産主義思想などの流入を経て、1930-40年代には「東トルキスタン」の名の下で独立を志向する運動が
高揚した。この動きは、中国共産党による新彊制圧や、人民共和国の開国式典に招待された民族主義者の墜落死に
よって下火となり、最終的には1957年以後の中国全体に吹き荒れた反右派闘争における「新疆地方民族主義批判」
によって押さえ込まれた。とはいえ、新彊生産建設兵団という巨大屯田兵組織を中心として、外来の漢人が「中国
全体の発展・建設」の大義名分のもと、新疆の天然資源など経済的利益を優先的に享受する状況が生まれ、その
利権からはウイグルなどトルコ系ムスリムが排除されたことで、今日における民族問題の激化の構図が形成された。
いっぽうチベット・モンゴルの近現代史は、北京からの距離的遠近によって状況が異なる。北京から遠いダライ・
ラマ政権(今日のチベット自治区)及び北モンゴル(今日のモンゴル国)では、いち早く清末新政に対する反発が
起こり、清軍との戦闘ならびに清の崩壊を経て1912年に事実上独立した。しかし、両者の後ろ盾になった英国・
ロシアは、近代中国との関係にも配慮するため両地域を独立国として扱うことはせず、結局両地域の国際的な
位置づけは曖昧なままであった。
北モンゴルは、北京政府との対立やロシア革命に伴うシベリアの混乱の影響を経て、最終的には独立したものの、
1991年のソ連崩壊までは事実上ソ連・コメコン体制に従属を強いられるという苦難を経た。いっぽうダライ・ラマ
政権のチベットは、民国の抗日が英国からの支援なしでは行い得ないことを逆手に取った英国が、蒋介石の
チベット関与可能性を排除し続けたこともあって、それなりに「自立した国家運営」を続けて来た。しかし1947年
のインド独立で、チベットは英国という後ろ盾を失ったのみならず、朝鮮戦争の勃発で世界中の注目が朝鮮半島に
集まると、チベットは巨大な地政学的空白となり、そこに着目した毛沢東が約10万の人民解放軍を進撃させた。
その結果ダライ・ラマ政権は、1951年に「チベットを帝国主義から解放する」と称する「17条協定」を結ばされ、
中華人民共和国への服従を強いられた。
このことは、中国とインドが帝国主義の圧迫から解放された代わりに、中国ナショナリズムの圧迫から逃れようと
していた別の事実上の国家が独立を失ったという逆説を意味する。
いっぽう、チベット・モンゴルと近現代中国との関係を考えるうえでは、最初から「独立」を目指した地域もさる
ことながら、表向き中華民国に従った東チベット(甘粛・青海・四川などのチベット高原)や南モンゴル
(内モンゴル)の状況が一層深刻である。彼らは当初、北京との関係の深さなどから独立を志向しなかったものの、
民国期の軍閥割拠への反発から自立を志向し、あるいは東部モンゴルのように満州国に組み込まれ、日本的な
近代化の影響を強く受けたことで、中国ナショナリズムから次第に距離を置くようになったからである。
これらの地域に共産党の権力が及んだ当初、長年来の国民党関係者は台湾逃亡や処刑などの憂き目に遭った。しかし
総じて、共産党が軍閥の横暴を取り払い、北京を中心とした中央集権下ながらも言語・文化的な特殊性にも配慮した
政策運用を可能にする「民族区域自治」を設定し、性急な社会改造をせず貧困解消に重点を置いたため、当初は
共産党の支配が受け容れられる傾向にあった。
しかし、そのような「順調な支配」は逆に、党中央自身がこれらの地域の統治について緊張感を欠くことにつながり、
実際1950年代半ばに人民公社化が漢人支配地域で進むと、東チベットや南モンゴルでも強引な社会改造が始まった。
これに対してチベット人は、牧畜に集団化は馴染まないこと(厳しい気候での放牧は個人の技術に依存する)、
そして給与の安さが信仰生活を配慮していない等の理由で全面的に反発し、やがて人民解放軍と内戦状態に陥った。
その影響がやがてチベット政府=ダライ・ラマ政権にも飛び火し、混乱の中でダライ・ラマ14世がインドに亡命した
結果、チベット亡命政府が成立するに至った。また南モンゴルでも、漢人中心の社会と、日本人に教育された
エリートを多数擁するモンゴル人社会との軋轢が高まる中、中ソ冷戦と文化大革命の極限の緊張とともにモンゴル人
エリートが大弾圧される「内蒙古人民革命党事件」が発生した。
こうしてモンゴル・チベットは、漢人主導の近代化、とりわけ毛沢東の政治のもとで大打撃を被った。しかし80年代
に入ると、毛沢東時代の宿弊の排除につとめた胡耀邦政権が「チベット工作会議」を開催し、穏健な少数民族政策を
推進した結果、チベット・モンゴルはもとより、新疆など多くの少数民族地域が文化的復興と経済発展の機会を
得られた。しかし1990年代後半以後は「西部大開発」のかけ声のもと、漢人や資本が大量に流入するようになると、
単にチベット・モンゴル・ウイグルは政治的な主体性を奪われているのみならず、言語面でも漢語中心の社会への
適応を強いられ(教育面でも漢語中心のカリキュラムへ移行している)、さらには砂漠化対策の「生態移民」に
よって伝統的な牧畜業が危機に直面するようになった。
2008年の北京オリンピック聖火リレーを巻き込んだチベット独立運動、2009年の新疆ウルムチでの衝突事件、そして
各地で頻発するウイグル人によるといわれる無差別殺傷事件は、清の領域が漢人中心の近代国家に変貌しきれない
ことに伴う矛盾のあらわれである。それは同時に、中国という国家及びその歴史を「華」としてのみとらえることの
不適切さ、及び「東アジア」的な論理(華夷思想、ならびに日本経由の近代のうち価値一元的な側面やナショナリズム
の語り方)がアジアに幸せをもたらすものではないことを意味している。」(P.167 ~ P.171)
●「9 「戦跡」の発明と「記憶」の創造 -- メディアと空間編成の政治学 福間良明」(P.239 ~ P.268)
本論考では、「戦跡」(もしくは、戦争の遺構)(たとえば、原爆ドーム、再建される前の浦上天主堂等)と「記憶」のための
モニュメント(たとえば、広島の平和記念公園、長崎の平和祈念像、沖縄にある本土の都道府県の慰霊塔等)との間の齟齬、
行き違い、関係する人々の各種の思惑等、その来歴とともに、興味深く記されています。福間良明の本も読んでみたくなりま
した。
その他、面白かった論稿の題名だけを下記します。
●「2 学問としての「歴史の IF 」 -- 「未来の他者」を見つめる歴史学 赤上裕幸」(P.43 ~ P.67)
●「5 よみがえる東欧と記憶の再編 -- ポーランドの経験から 小山哲」(P.119 ~ P.148)
この論考は、ポーランドのその周辺の国(ドイツやウクライナ、ロシア(ソ連)等)の歴史的関係についての様々の知識を与え
てくれて、非常に有益です。
●「3 ポスト世俗化時代のジェンダー・ポリティクス -- メタ・ヒストリーをめぐる抗争 土佐弘之」(P.69 ~ P.91)
●「4 グローバリゼーションの時代における「国境の越え方」 伊豫谷登士翁」(P.95 ~ P.117)