無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
イエス伝 (岩波文庫 青 810-1) ペーパーバック – 1941/1/14
リサイクルブック市(図書館)で入手した本で表題ページと奥付ページにゴム印「図書館名」と「リサイクルブック」印が押してあります。若干のスレはありますがほぼ普通です。天地と小口に少しヤケがあります。中身は少しヤケはありますが比較的きれいです。
- 本の長さ403ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1941/1/14
- ISBN-104003381017
- ISBN-13978-4003381014
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1941/1/14)
- 発売日 : 1941/1/14
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 403ページ
- ISBN-10 : 4003381017
- ISBN-13 : 978-4003381014
- Amazon 売れ筋ランキング: - 411,934位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,665位岩波文庫
- - 73,880位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.7つ
5つのうち4.7つ
6グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年9月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
このイエス伝はイエスを人間として描いたものである。 しかしイエスの13歳から29歳までの消息は不明である。 父ヨセフが死亡したため兄弟を養うために大工仕事をしていたようである。 ユダヤ教ではメシアはダビデの子孫からベツレヘムで生まれるとされていた。 しかしイエスはナザレで生まれた平民でダビデの子孫ではない。 イエスの兄弟たちはイエスを頭の狂った兄として冷淡に扱った。 イエスの奇跡も弟子たちが拡大、拡散したもので単に病人の体に触れたり、ほほ笑むことで薬以上の効果をもたらしたに過ぎないという。 またイエスはエジプトで妖術を学んだとされ魔術師、香具師ではと疑われる。 預言者たちは認知症が多く幻視、幻聴を神の声として聴くことも多かったという。 当時病気は悪魔の仕業でこの悪魔払いをすれば病気は治るとされていた。 イエスはこの悪魔払いが得意であったようである。 奇妙なことはイエスの奇跡がミトラ教のミトラが行った奇跡と同一という点である。 この両者は1000年以上の開きがある。 厩で処女から生まれ3博士がバビロニアから来たというのも同様である。 12月25日の誕生日はミトラでありイエスではない。 これほどの貴人の誕生日が記録されていないのも奇異である。 3博士は記録するのを忘れたのか。 イエスの説教には矛盾も多く詭弁も多く見られたという。 ローマによる戸籍登録に多くのユダヤ人は憤慨して納税拒否を行ったがイエスはローマとの戦争を避けるため税金を納めていたという。 人々はイエスをメシア、神の子と呼んだがイエスは人の子と自覚していた。 3位一体も後世の人が制度化したものである。 復活も義人は復活するが悪人は地獄に落ちるとした。 盲目や聾唖の人を救ったのもトリックと考えられる。 死者を蘇えらせたというのも弟子たちの風評の伝播であった。 神殿崇拝のサドカイ派や律法原理主義のパリサイ派と激しく争う。 熱心党はローマとの戦争も辞さない過激派である。 イエスの目指したのは強直化したユダヤ教の改革であった。 イエスは神殿を侮辱した罪で告訴された。 ピラトはイエスを無罪と思い救おうとしたがパリサイ派の奸計に敗れた。 この書が禁書になったのはイエスを人間として描いたためと思われる。
2007年12月25日に日本でレビュー済み
論文「国民とは何か」により近代ナショナリズムの源流と位置付けられると同時に、サイードが指摘したようにオリエンタリズムの源流としても位置付けられるルナン。(確かにこの本の中では回教やユダヤ教に対して罵詈雑言が連なっている。)
この本では、近代合理精神の立場から「人間イエス」を描写しようとした力作で、処女懐胎や病気の治癒等の奇跡、復活、三位一体等の御馴染みのモチーフをことごとく否定してみせ、出版当初大問題になったらしい。彼の描く人間イエスは時に詭弁を弄し論理矛盾も孕みながら、「父の子」として宗教精神を体現しようと試みる魅力的な人間として描かれている。その一方で、そんな「人間イエス」に対する徹底した信仰と忠誠が、読むものに奇妙な矛盾を感じさせる。なぜルナンはここまでイエスとキリスト教の神性を否定しつつ熱狂的なキリスト教徒でい続けられたのか。彼が神の存在をどのように考えていたのかはこの一冊からは分からないが、少なくとも人生訓や博愛主義を超えた何らかの神性に彼が惹かれていたことは確かだと思う。
この点を考慮すると、「神は死んだ」と語ったニーチェが著作でルナンをボロクソに書いた理由もよく分かるが、意外にその語り口は両者似通っているのも興味深い。超人志向もしくは人間イエス主義を通俗的に読んだとき、明らかに彼らはナチズムという個人崇拝に到る道に位置付けられるわけであり、その意味でも彼らは西欧近代精神とは何だったかを語る上で外せない存在なのだと思う。(もちろん、ニーチェを通俗的に読まなかった場合に開ける全く別の地平というのがあるとしても、哲学が通俗的にしか受容されないという現象自体が近代の特質なのだとしたら?)
それにしても、サイードが指摘したように文献学を標榜しつつ実は著者の想像力に頼りすぎる嫌いはあるとしても、ここまではっきりと「人間イエス像」が研究されてから1.5世紀が経っているのに、まだ何割かのキリスト教徒は進化論を否定し、人の生き返りを信じているという事実に驚かざるを得ない。西欧近代精神というのがいかに時間・空間的にローカルなものかということに思いをはせてしまう一冊であり、恐らくこれからも多くのキリスト教徒にとっては「異端の書」であることが確実な一冊。
この本では、近代合理精神の立場から「人間イエス」を描写しようとした力作で、処女懐胎や病気の治癒等の奇跡、復活、三位一体等の御馴染みのモチーフをことごとく否定してみせ、出版当初大問題になったらしい。彼の描く人間イエスは時に詭弁を弄し論理矛盾も孕みながら、「父の子」として宗教精神を体現しようと試みる魅力的な人間として描かれている。その一方で、そんな「人間イエス」に対する徹底した信仰と忠誠が、読むものに奇妙な矛盾を感じさせる。なぜルナンはここまでイエスとキリスト教の神性を否定しつつ熱狂的なキリスト教徒でい続けられたのか。彼が神の存在をどのように考えていたのかはこの一冊からは分からないが、少なくとも人生訓や博愛主義を超えた何らかの神性に彼が惹かれていたことは確かだと思う。
この点を考慮すると、「神は死んだ」と語ったニーチェが著作でルナンをボロクソに書いた理由もよく分かるが、意外にその語り口は両者似通っているのも興味深い。超人志向もしくは人間イエス主義を通俗的に読んだとき、明らかに彼らはナチズムという個人崇拝に到る道に位置付けられるわけであり、その意味でも彼らは西欧近代精神とは何だったかを語る上で外せない存在なのだと思う。(もちろん、ニーチェを通俗的に読まなかった場合に開ける全く別の地平というのがあるとしても、哲学が通俗的にしか受容されないという現象自体が近代の特質なのだとしたら?)
それにしても、サイードが指摘したように文献学を標榜しつつ実は著者の想像力に頼りすぎる嫌いはあるとしても、ここまではっきりと「人間イエス像」が研究されてから1.5世紀が経っているのに、まだ何割かのキリスト教徒は進化論を否定し、人の生き返りを信じているという事実に驚かざるを得ない。西欧近代精神というのがいかに時間・空間的にローカルなものかということに思いをはせてしまう一冊であり、恐らくこれからも多くのキリスト教徒にとっては「異端の書」であることが確実な一冊。
2013年1月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
以前から読みたいと思っていた一冊で探していました。
内容も思ったとおりで、大変満足しています。
内容も思ったとおりで、大変満足しています。
2021年6月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
別の翻訳もあるが、一部の章が割愛されており、岩波版は全章の翻訳であり、戦前に翻訳ではあるかその価値は少しも減っていないと思う。