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歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫) 文庫 – 2016/3/17
野家 啓一
(著)
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「歴史的事実」とされるものは何か? 科学哲学・分析哲学の立場から、「歴史の物語り論」「歴史修正主義」など歴史認識の問題を七日間の講義という形式で、わかりやすく解説する。現代文庫版では、「補講」として歴史学者・遅塚忠躬の本書に対する批判についての反批判も収録。人文科学のあり方を問い直す知的刺激に満ちた本。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2016/3/17
- 寸法10.5 x 1.1 x 14.8 cm
- ISBN-104006003420
- ISBN-13978-4006003425
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商品の説明
著者について
野家啓一(のえ・けいいち)
1949年宮城県生まれ.東北大学理学部物理学科卒業.東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退.東北大学文学部教授,同大学文学部長,同大学理事・副学長を歴任.東北大学名誉教授.現在,東北大学教養教育院総長特命教授.専攻は哲学・科学基礎論.主な著書に『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』(以上,勁草書房),『科学の解釈学』(講談社学術文庫)『物語の哲学』(岩波現代文庫),『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)ほか.
1949年宮城県生まれ.東北大学理学部物理学科卒業.東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退.東北大学文学部教授,同大学文学部長,同大学理事・副学長を歴任.東北大学名誉教授.現在,東北大学教養教育院総長特命教授.専攻は哲学・科学基礎論.主な著書に『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』(以上,勁草書房),『科学の解釈学』(講談社学術文庫)『物語の哲学』(岩波現代文庫),『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)ほか.
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2016/3/17)
- 発売日 : 2016/3/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 224ページ
- ISBN-10 : 4006003420
- ISBN-13 : 978-4006003425
- 寸法 : 10.5 x 1.1 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 178,538位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 260位岩波現代文庫
- - 652位歴史学 (本)
- - 1,255位その他の歴史関連書籍
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヒントに満ちた、現実に生起している歴史を紐解くのに役立つ本ですよ。
2017年8月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
歴史的事実は客観的実在ではなく我々の言語活動を通じて構成されるものだ、という著者の主張自体には、特に違和感はない。というか、むしろ当たり前のことのようにすら思える。問題は、著者が言うような歴史観を採ることが、実際の歴史記述にどのような差異をもたらすのかが本書からはサッパリ見えないことである。単に「歴史研究者は歴史記述の視点拘束性を自覚せよ亅とお説教するだけならば、そんなことは言われずとも皆分かってる話である。「歴史の物語り論」を採ることで、歴史記述のあり方や方法論が具体的にどう変わるのかを示せなければ、単に過去の存在論的身分を論じただけであって、「歴史を」哲学したことにはならないのではないか。著者は単なる素朴実在論では近年の「自由主義史観」にすら対抗できないと言うが、「物語り論」を採るとどのように対抗できるのか全く不明である。少なくとも、「自由主義史観」の支持者が本書を読んで考えを改めることは、まずないだろう。
2018年6月16日に日本でレビュー済み
『
物語の哲学 (岩波現代文庫)
』第一章から第五章までは、1983年から1993年の間に各誌に発表され、『
物語の哲学―柳田国男と歴史の発見
』として1996年に出版された内容です。1996年版に対する上村忠男氏と高橋哲哉氏からの反論に対する著者の反論が、『物語の哲学』のあとがきに収録されています(上村氏は、昨年邦訳が出た『
メタヒストリー――一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力
』の著者ヘイドン・ホワイトの近年の著作の翻訳者で、長年イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグの著書の邦訳を多数出してきた方です。ホワイトとギンズブルグは歴史の物語り論を巡って論争を行った経緯があります)。更に前著での様々な反響・批判を受けて雑誌掲載された論説が、本書の第六章、第七章として収録されています。
更には、2007年に『物語の哲学』の簡易概要版として『 歴史を哲学する (双書 哲学塾) 』を出版し、この書籍に対する歴史学者遅塚忠躬の『 史学概論 』に掲載された反論を受けて、遅塚氏への反論が増補されたのが、2016年に出版された本書です。
このように、二冊の文庫版を読むことで、1990年頃から2016年までの著者の論旨の変遷や批判を受けての議論の発展が見て取れる点で有用なので、二冊まとめて読むことをお薦めいたします。当初は科学哲学を研究していた著者が1990年に論じた柳田國男を中心とした(現在から見ると)素朴な物語論が、90年代に欧米歴史学界で激しい論争を巻き起こして日本でも欧米の5-10年後くらいに焦点となった言語論的転回や歴史修正主義など歴史学の論争の潮流とぶつかり、議論が深化してゆく過程をこの二冊で追うことができます。他の方のレビューを見ると、議論の結果に関して消化不良な方が目立ちますが、私の場合、議論の結果より、(二冊あわせて)議論の過程を追うことが有意義な書籍でした。
このあたりの歴史の方法論に関する最近の議論をまとめた近著ですと、岡本光弘著『 過去と歴史: 「国家」と「近代」を遠く離れて 』がお奨めかも知れません。
更には、2007年に『物語の哲学』の簡易概要版として『 歴史を哲学する (双書 哲学塾) 』を出版し、この書籍に対する歴史学者遅塚忠躬の『 史学概論 』に掲載された反論を受けて、遅塚氏への反論が増補されたのが、2016年に出版された本書です。
このように、二冊の文庫版を読むことで、1990年頃から2016年までの著者の論旨の変遷や批判を受けての議論の発展が見て取れる点で有用なので、二冊まとめて読むことをお薦めいたします。当初は科学哲学を研究していた著者が1990年に論じた柳田國男を中心とした(現在から見ると)素朴な物語論が、90年代に欧米歴史学界で激しい論争を巻き起こして日本でも欧米の5-10年後くらいに焦点となった言語論的転回や歴史修正主義など歴史学の論争の潮流とぶつかり、議論が深化してゆく過程をこの二冊で追うことができます。他の方のレビューを見ると、議論の結果に関して消化不良な方が目立ちますが、私の場合、議論の結果より、(二冊あわせて)議論の過程を追うことが有意義な書籍でした。
このあたりの歴史の方法論に関する最近の議論をまとめた近著ですと、岡本光弘著『 過去と歴史: 「国家」と「近代」を遠く離れて 』がお奨めかも知れません。
2016年4月6日に日本でレビュー済み
科学哲学のほうでは、最強の執筆者である著者の歴史哲学。
本書の良かった点を書くと、
1)ダントーの簡潔な説明がコアになっており、そこから著者独自の歴史哲学を展開している。翻訳(原書も)を入手しにくい昨今、ダントーの説明は貴重だ。
2)過去の多くの議論に拘泥しないで、かなり明確に持論を展開。一方でダントー以外にも、論理実証主義系、大森荘蔵らの理論も参照してくれている。
3)聴講者の疑問に真正面から答える真摯な姿勢。しかし、必ずしも100%説得的かというとそうではない。でもその体当たり的な真摯さゆえに、誰も文句を言いたいとは思わない。説得的でないところは、やはり、「過去の出来事そのもの」は無くて(事柄が起きなかったという事では無い、現実はあるのだが)、結局は解釈なんだ、という多くの歴史哲学者と同じような主張をしているところだと思う。この議論は著者に限らず、或る意味説得的に聞こえるのだが、何処か釈然としなさが残る。およそ人間は、事柄そのものを見知っている、という感覚もあって、それを人間同士が自然に共有しているところに、無理無く生活している根拠がある。過去の事でも、確かに直接知ではない不安はあるとして、或る部分、透けて見えるという感覚を前提にしており、その上で解釈の違いなどがあるというのが無理のない感覚なのに、そもそも事柄そのもの自体が構成されているという議論はやはり馴染めないところがある。しかも語る論者自体が、やはり何処か事柄そのものを見知っていることを前提に論じているところも出てきてしまう。認識論一般の不毛感は払拭できない。
ほかに、少し弱いと思うことを言うと、
① 志向的統一の説明。直接の実在(?)に対する認識、という意味での志向的統一は、本書で述べられているフッサール以外にもヘーゲルの精神現象学があるのだが、その話と、過去にあった話を現代人が認識するフェーズで、「志向的統一」をいう妥当性があるか?この部分を著者はさらりと、眼前の志向的統一のある認識論のフェーズから、歴史認識の話へパラフレーズしているが少し無理があると思う。何と言っても直接物体を認識する場合と、間接的「情報」しか持ち得ない過去認識は同日の談ではないことは明らかなのに。
②大森が言う三要件・・証言の一致、諸般の法則性への合致、物証・・を以てして初めて志向的統一の積極的身分が確立する、という件。私はこれでは少し視野狭窄に過ぎると思う。こういう定義をやらかすと、立脚ポイントがすでに狭められ、無碍に排除されたり、最低要件をクリアしたと思ったりしてしまう。むしろ、歴史は、「もし~だったら」という無限の問いかけも必要ではないかと思う。この問いかけがあればこそ、限られた条件において与えられる上記三要件に終わらない幅が出てくると思う。
③コリングウッドや、ウェーバーらの実り豊かな実績が無視されている。想像するに、著者は、コリングウッドやウェーバーは、「理解」「追体験」といった、言語分析を無視した直観的な概念で、歴史理解を進めた限界を観てとっていると思う。しかし、言語分析が、逆にコリングウッド、ウェーバーが言う、「追体験」「理解」を包摂することが可能だろうか。或る面厳密になるにしても、むしろ、言語分析は、諸定義が厳格過ぎて、却っていろいろなことをとりこぼしていると思う。
④構造主義や、フーコーの知の考古学といった、従来の歴史に対する異議申し立てが無視されている。彼らが言うには、過去において「概念の系」が異なることが多く、現代人のスタンスでの理解は、限度があり、単なる証言、証拠、諸法則への合致、解釈などは、現在の概念の系を無造作に前提にしているから、過去に迫れない、むしろ、概念の系を相対化することで、見えてくるものがあると言っているのだが、その話は検討されなかった。
⑤結局、学問を自然科学の概念に押し込める、または、近づける、といった動機では、人文系の諸学は意味をなさない。むしろ、歴史などの人文系学問は、或る事を説明し、語ることで、同時に「表現」という要素もあって、そのことで、問題提起や、思考を促すことに成功してきた。この事実をしらばくれて、自然科学的科学に押し込める算段に腐心することは実りある行為とは言えない。
でも本書は、いろいろ歴史について考える機縁を与えてくれる。
本書の良かった点を書くと、
1)ダントーの簡潔な説明がコアになっており、そこから著者独自の歴史哲学を展開している。翻訳(原書も)を入手しにくい昨今、ダントーの説明は貴重だ。
2)過去の多くの議論に拘泥しないで、かなり明確に持論を展開。一方でダントー以外にも、論理実証主義系、大森荘蔵らの理論も参照してくれている。
3)聴講者の疑問に真正面から答える真摯な姿勢。しかし、必ずしも100%説得的かというとそうではない。でもその体当たり的な真摯さゆえに、誰も文句を言いたいとは思わない。説得的でないところは、やはり、「過去の出来事そのもの」は無くて(事柄が起きなかったという事では無い、現実はあるのだが)、結局は解釈なんだ、という多くの歴史哲学者と同じような主張をしているところだと思う。この議論は著者に限らず、或る意味説得的に聞こえるのだが、何処か釈然としなさが残る。およそ人間は、事柄そのものを見知っている、という感覚もあって、それを人間同士が自然に共有しているところに、無理無く生活している根拠がある。過去の事でも、確かに直接知ではない不安はあるとして、或る部分、透けて見えるという感覚を前提にしており、その上で解釈の違いなどがあるというのが無理のない感覚なのに、そもそも事柄そのもの自体が構成されているという議論はやはり馴染めないところがある。しかも語る論者自体が、やはり何処か事柄そのものを見知っていることを前提に論じているところも出てきてしまう。認識論一般の不毛感は払拭できない。
ほかに、少し弱いと思うことを言うと、
① 志向的統一の説明。直接の実在(?)に対する認識、という意味での志向的統一は、本書で述べられているフッサール以外にもヘーゲルの精神現象学があるのだが、その話と、過去にあった話を現代人が認識するフェーズで、「志向的統一」をいう妥当性があるか?この部分を著者はさらりと、眼前の志向的統一のある認識論のフェーズから、歴史認識の話へパラフレーズしているが少し無理があると思う。何と言っても直接物体を認識する場合と、間接的「情報」しか持ち得ない過去認識は同日の談ではないことは明らかなのに。
②大森が言う三要件・・証言の一致、諸般の法則性への合致、物証・・を以てして初めて志向的統一の積極的身分が確立する、という件。私はこれでは少し視野狭窄に過ぎると思う。こういう定義をやらかすと、立脚ポイントがすでに狭められ、無碍に排除されたり、最低要件をクリアしたと思ったりしてしまう。むしろ、歴史は、「もし~だったら」という無限の問いかけも必要ではないかと思う。この問いかけがあればこそ、限られた条件において与えられる上記三要件に終わらない幅が出てくると思う。
③コリングウッドや、ウェーバーらの実り豊かな実績が無視されている。想像するに、著者は、コリングウッドやウェーバーは、「理解」「追体験」といった、言語分析を無視した直観的な概念で、歴史理解を進めた限界を観てとっていると思う。しかし、言語分析が、逆にコリングウッド、ウェーバーが言う、「追体験」「理解」を包摂することが可能だろうか。或る面厳密になるにしても、むしろ、言語分析は、諸定義が厳格過ぎて、却っていろいろなことをとりこぼしていると思う。
④構造主義や、フーコーの知の考古学といった、従来の歴史に対する異議申し立てが無視されている。彼らが言うには、過去において「概念の系」が異なることが多く、現代人のスタンスでの理解は、限度があり、単なる証言、証拠、諸法則への合致、解釈などは、現在の概念の系を無造作に前提にしているから、過去に迫れない、むしろ、概念の系を相対化することで、見えてくるものがあると言っているのだが、その話は検討されなかった。
⑤結局、学問を自然科学の概念に押し込める、または、近づける、といった動機では、人文系の諸学は意味をなさない。むしろ、歴史などの人文系学問は、或る事を説明し、語ることで、同時に「表現」という要素もあって、そのことで、問題提起や、思考を促すことに成功してきた。この事実をしらばくれて、自然科学的科学に押し込める算段に腐心することは実りある行為とは言えない。
でも本書は、いろいろ歴史について考える機縁を与えてくれる。
2016年4月5日に日本でレビュー済み
この本を少し読んでみて、書いてある内容が解る方は、
今まで相当に勉強していて、別にこの本を
読まなくても差し支えない人だろうと思います。
書いてある内容が解らない方は、この本を読む前に、
巻末の参考文献など、膨大な読書が必要でしょう。
語り口はやさしいですが、実は
非常な労力が必要な本だと思います。
今まで相当に勉強していて、別にこの本を
読まなくても差し支えない人だろうと思います。
書いてある内容が解らない方は、この本を読む前に、
巻末の参考文献など、膨大な読書が必要でしょう。
語り口はやさしいですが、実は
非常な労力が必要な本だと思います。
2022年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
歴史のナラティブ性についてキチンと書いた素晴らしい本です。
私のまわりにいるサヨクの人は、自分が決めた歴史を絶対的に正しいと決めつけ、日本を非難する人ばかりでした。彼らは唯一の歴史観に基づき、反省的歴史のみを語ります。歴史は「物語性」を持つということを言いません。
それは、例えば、尖閣諸島の領有権主張には、キチンとした歴史的な経緯があるからだよということを重視させないためかなとか思ってます。
あるいは、国家の正史を意識させないためなのかな、とも思っています。
それで、ベルンハイムのいう反省的歴史、発展的歴史については語っても、物語的歴史に口を閉ざしているのかなあと思ってました。
著者は、キチンと歴史ナラティブを語り、その上でサヨクの立場から意見を言ってきます。(第2章)正面からくる人物は、敵であろうとも信用できます。
「歴史のナラティブ性を言い出したのは誰ですか?」という疑問に答えてくれる本だったので、とても勉強になりました。(ちなみに、答はダントー。ヘイドン・ホワイト。ホワイトの本は読んだことはあるのですが、サッパリ分からなかった。ダントーの本を読んでやっと得心した)
私のまわりにいるサヨクの人は、自分が決めた歴史を絶対的に正しいと決めつけ、日本を非難する人ばかりでした。彼らは唯一の歴史観に基づき、反省的歴史のみを語ります。歴史は「物語性」を持つということを言いません。
それは、例えば、尖閣諸島の領有権主張には、キチンとした歴史的な経緯があるからだよということを重視させないためかなとか思ってます。
あるいは、国家の正史を意識させないためなのかな、とも思っています。
それで、ベルンハイムのいう反省的歴史、発展的歴史については語っても、物語的歴史に口を閉ざしているのかなあと思ってました。
著者は、キチンと歴史ナラティブを語り、その上でサヨクの立場から意見を言ってきます。(第2章)正面からくる人物は、敵であろうとも信用できます。
「歴史のナラティブ性を言い出したのは誰ですか?」という疑問に答えてくれる本だったので、とても勉強になりました。(ちなみに、答はダントー。ヘイドン・ホワイト。ホワイトの本は読んだことはあるのですが、サッパリ分からなかった。ダントーの本を読んでやっと得心した)