原本の是非は問うまでもありません。すばらしい。
けれども、文章が判りにくい。数行にわたりダッシュでつないでおきながら、最後になって「というのはあまり重要ではない」なんて、オイオイと。
時々、ダッシュつけたのに、結び忘れている部分があって、文として完結してないところもしばしば。
ヴェーバーが如何に社会科学の世界を明晰にしたかということを考えれば、この文章じゃ、真意が伝わらんでしょ。読者に判り易い文章に直して欲しいです。
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社会科学の方法 (講談社学術文庫) 文庫 – 1994/11/2
ヴェーバーにおける社会科学は、人間の諸事象を文化意義という観点から考究し、歴史的個体の把握に努め、歴史事実を分析・総合すべきとする。彼は唯物史観をしりぞけ、抽象的理念だけでなく論理的な現実認識の手法を加えた《理念型》という概念を導入し、新たな社会科学の方法論を確立する。本書はヴェーバー思想の転換点と位置づけられ、その後の展開と体系を理解するうえで必読の書といわれる。
- 本の長さ176ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1994/11/2
- ISBN-104061591517
- ISBN-13978-4061591516
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商品の説明
著者について
【マックス・ヴェーバー】
1864年エルフルト生まれ。ドイツの社会学者・経済学者。理念型概念構成を主張し独自の社会科学理論を構築し、マルクスと並んで後世に大きな影響を与えた。1920年没。著書に『職業としての学問』『支配の社会学』などがある。
【祇園寺信彦】
1911年宮城県生まれ。東北帝国大学法文学部卒業。東北大学名誉教授。専攻は、西洋史。
【祇園寺則夫】
1946年宮城県生まれ。東北大学法学部卒業。小山高専助教授。ドイツ社会民主党史専攻。
1864年エルフルト生まれ。ドイツの社会学者・経済学者。理念型概念構成を主張し独自の社会科学理論を構築し、マルクスと並んで後世に大きな影響を与えた。1920年没。著書に『職業としての学問』『支配の社会学』などがある。
【祇園寺信彦】
1911年宮城県生まれ。東北帝国大学法文学部卒業。東北大学名誉教授。専攻は、西洋史。
【祇園寺則夫】
1946年宮城県生まれ。東北大学法学部卒業。小山高専助教授。ドイツ社会民主党史専攻。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1994/11/2)
- 発売日 : 1994/11/2
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 176ページ
- ISBN-10 : 4061591517
- ISBN-13 : 978-4061591516
- Amazon 売れ筋ランキング: - 454,364位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年2月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2018年6月23日に日本でレビュー済み
このようなメチャクチャな訳で、よくも講談社は出版を許したものだ。
訳者を変えての再出版を要求する。
訳者を変えての再出版を要求する。
2007年5月6日に日本でレビュー済み
20世紀思想の殆どが本書となんらかの関係を持っている。マンハイムのイデオロギー論、フランクフルト学派ら西欧マルクス主義、いずれも本書「客観性」に関する考察の応用か、本書の問題提起に対する一つの解答、となっていると言っても良い。また本書は、直接的には当時世界を席巻していたマルクス主義への反論となっているが、更に言えば、ヘーゲルの「エンチクロペディーの序論」にあるSeinとSollen(事実と当為)に関する言説に対するアンチテーゼともなっている(ヘーゲルのそれはカントのテーゼに対するアンチテーゼだ)。社会科学における客観性とは何か、研究者の立場というものを離れて研究は存在しない、とすれば自身の価値を出来るだけ明確にし意識化してそれを明らかにした上で論じるべきだ、そしてそのツールとして理念型(理想型)という一面の価値を強調した類型を用いて説明をすること、これをコアとして本書は主張しているように思える。使用する術語や概念そのものに付着している価値判断をむしろ明示することで、事実問題に混在する価値問題を分離しようと企てる。しかし、私見では、如上の件に神経を研ぎ澄ます前にやるべきことがあると思う。それはある研究を行う(命題提示)に際して、その「問い」を明確化し、その「答え」としての論文であることを示すべきだ。他者はその「問い」と「答え」を見れば、当の研究主体の立場の多くを把握でき、結果として事実と当為の混在を避けることが可能だろう。ところで本当に人は「他者」の立場に立つことが可能だろうか?ある立場Aを別の立場Bから眺めることは、立場Aの視界を理解したといえるだろうか。物理的には同時に同じ場所を占めることは出来ないからそれは無理だが、「思想」ならそれが出来る保証はあるだろうか。ヘーゲルが嘗て疑問視した通り、私もこれは無理な相談だと思う。無闇に価値の鮮明化を行うのは一体誰のためか?結局それはナルシスト的発想ではないのか。また本書の欠点は、ディルタイやヘーゲルが既に気付いていたとおり、術語・概念は、それだけで自己完結は出来ず、より大きなシステムの中で意味付けられている点を不問にしていることだ。「理念型」の積み上げとその比較によって事を論じると言うのは、古風な自然科学主義の残存、アトム主義の残存だ。ウェーバーの流儀では書物にされる前の段階で操作された「理念型」の出自が隠蔽されることになる。テキストとして登場する段階はすでに多くのことが行われた後なのである。
2016年5月4日に日本でレビュー済み
訳が余りにも酷すぎる。原書の良さの大半が失われており、読むのに無駄なストレスを感じ得ない。岩波の訳が遥かに洗練されており、補説も優れているので、そちらを手に取られることを薦めたい。
2012年2月11日に日本でレビュー済み
本書は翻訳が拙劣すぎる。
原書が難解なせいもあるのだろうが、ほとんど日本語の体をなしていない。
本書は社会科学というものの本質を探る上で重要な文献である。しかし本学術文庫の祇園寺訳ではなく、岩波文庫の富永ほか訳の方を読んだ方がよい。岩波の方が翻訳がいい上、折原浩氏による懇切丁寧な解説が付いている。値段も200円以下しか変わらない。
原書が難解なせいもあるのだろうが、ほとんど日本語の体をなしていない。
本書は社会科学というものの本質を探る上で重要な文献である。しかし本学術文庫の祇園寺訳ではなく、岩波文庫の富永ほか訳の方を読んだ方がよい。岩波の方が翻訳がいい上、折原浩氏による懇切丁寧な解説が付いている。値段も200円以下しか変わらない。