あまりに分厚い本だと思ってはいたが、それもそのはず、ディオギネスに関する文献は「ディオギネス伝」と彼の散逸した著書「国家」ぐらいのものである。それであるがゆえに、ここまで大きくなってしまったのであろう。
大半が彼のエピソードに関する検討や、文献の比較検討に付き合わされる。すこし退屈であるかもしれない。
彼は「自由」「平等」「友愛」を何よりも尊重した。彼の生き方そのものはそれの発露だし、あらゆる問答の中にもそれが現れている。「等価交換は不等価交換ではないか?」といい、「モノをねだってそれを私は受け取った。君にもその恩恵が伝わったはずだ。」というなど、よく考えればそのとおりかもしれないと思う行動や発言が多い。
また、アリストテレスのように侃々諤々の議論を嫌っているのか、それともそれに論駁しうるためなのか、正義に関する議論はあまりない。むしろ色々な事柄は「飾りだ。」とまでいう。アリストテレスは「何が何に値するか」を考えるあまり「生まれつき奴隷の身分に相応する人もいるのではないか。」とまでいうが、ディオギネスはロールズの無知のヴェールを先取りするかのように、「名声だの財産だのは飾りだ。どうせ皆一緒なんだ。みんな満たされるものは同じだし、目があり鼻があり手で飯を食べる。奴隷なんていうのも呼称に過ぎない。」とまで云った。ゆえに、彼の唯一の合法政府は「世界政府」だとする。
彼のような哲学者は、時代を問わず一定程度いるのだな、という気も同時にした。
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哲学者ディオゲネス -世界市民の原像- (講談社学術文庫) 文庫 – 2008/1/10
山川 偉也
(著)
ギリシアの枠を飛び越えた「犬哲学者」の実像
甕(かめ)の中に住まい、頭陀袋(ずたぶくろ)を下げ、襤褸(ぼろ)をまとって犬のようにアテナイの町をうろつき、教説を説いたシノペのディオゲネス。おびただしい数の逸話で知られる「犬哲学者」の思想とは、いったいどのようなものだったのか。アリストテレス的人間観や当時の伝統・習慣を全否定し、「世界市民」という新しい理念を唱導・実践した思想家の実像を探り出し、われわれ現代人の生き方を模索する。
「犬」と呼ばれたシノペのディオゲネス。ひとは彼についてどれほどのことを知っているだろうか。(略)昼日中にランプを灯してアテナイの雑踏を往来しつつ「わしは『人間』を探している」と言い放ったとか、なにかそういう類の奇抜な逸話が知られているだけではあるまいか。だが、知るべきはこの男の生き方、その根底にあった「世界市民」思想だ。――<「序章」より>
甕(かめ)の中に住まい、頭陀袋(ずたぶくろ)を下げ、襤褸(ぼろ)をまとって犬のようにアテナイの町をうろつき、教説を説いたシノペのディオゲネス。おびただしい数の逸話で知られる「犬哲学者」の思想とは、いったいどのようなものだったのか。アリストテレス的人間観や当時の伝統・習慣を全否定し、「世界市民」という新しい理念を唱導・実践した思想家の実像を探り出し、われわれ現代人の生き方を模索する。
「犬」と呼ばれたシノペのディオゲネス。ひとは彼についてどれほどのことを知っているだろうか。(略)昼日中にランプを灯してアテナイの雑踏を往来しつつ「わしは『人間』を探している」と言い放ったとか、なにかそういう類の奇抜な逸話が知られているだけではあるまいか。だが、知るべきはこの男の生き方、その根底にあった「世界市民」思想だ。――<「序章」より>
- ISBN-104061598554
- ISBN-13978-4061598553
- 出版社講談社
- 発売日2008/1/10
- 言語日本語
- 寸法10.8 x 1.9 x 14.8 cm
- 本の長さ504ページ
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2008/1/10)
- 発売日 : 2008/1/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 504ページ
- ISBN-10 : 4061598554
- ISBN-13 : 978-4061598553
- 寸法 : 10.8 x 1.9 x 14.8 cm
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2017年11月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2022年9月19日に日本でレビュー済み
キュニコス派のディオゲネスは樽に住み、公衆の面前でマスターベーションをし、アレキサンダー大王に「日陰になるからどいてくれ」と言い放つなど、単なるキワモノ哲学者だと思っていましたが、極めて先進的な思想を持った時代を先取りした哲学者であることが理解できました。大変いい本ですが、ディオゲネスの資料が少ないためか、アリストテレスなど、ディオゲネスと対比される哲学者の説明が多くなっています。
2015年7月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ディオゲネスの伝記・逸話については、大部分がラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」(岩波文庫)に言い尽くされている。
この本は、それを基に膨大な知識を駆使して、ディオゲネス像を構築している。
著者の博識ぶりはかなりすさまじく、その綿密な考証・実証には頭が下がる。
その労には敬意を表するが、しかし、何と言っても偏り過ぎている。
著者の哲学を、ディオゲネスを隠れ蓑にして展開している、とさえ言える程である。
大変申し訳ないが、「世界市民主義」なんて言ったって、今時リアルではないのである。
唯一現実に世界市民主義が成立するとすれば、共産主義の小国家であろうが、岩波文化人臭くて勘弁してほしい。
とにかく主張が極端過ぎてついてゆけない。
ディオゲネスが反権威主義から上下関係を逆転させる(ノミスマをパラハラッティンする、という表現がとられる)ことを使命とした、と真面目に言われるが、下(ディオゲネス)が上下を逆転させるとしたら、逆転後には自分が上になってしまうのであり、それならその後に自分を又下に落とさなければならない筈である。永遠のループである。
しかし、「哲学者列伝」には、ディオゲネスが上に噛みつくエピソードしか出てこない。
これを哲学や政治の姿勢として大真面目に取るのであれば、皮肉にも、御自分が非常な権威者となってしまうのである。
しかも批判を封じる程強権的な。
しかしもっと気楽に考えれば、価値観の上下逆転と言えば、「笑い」の本質であり、ギリシアの同時代人は、ディオゲネスの言行を「笑い」として受け止めていたのではなかろうか?
それはルキアノスの嘲笑と同種のものである。
特にギリシアの場合、よく自由な民主制と誤解されるが、実体はポリスが絶対的存在で、ポリスこそ神であり、ポリスのためには命を捨てることも平気で強要され、成人男性市民もそれを普通のことと考えていた。
「運命神」がゼウスより上位の神と考えられていたことからも分かるように、ポリス絶対主義からくる窮屈感、「全てはポリスのために」という社会で、市民は多かれ少なかれ諦念を抱いていただろう。
ディオゲネスの「笑い」は大きなインパクトを与え、市民は喜び、楽しんだに違いない。普通の市民ならとてもそんな言行は許されないのだから。
であるから、ディオゲネスのような人物は古代ギリシアでは、都市の周縁にいなければ活動出来ないのは当然であろう。
寧ろ言い方としては、周縁でなければ存在を許されない。
しかし、別の角度から見れば、コアの中心があればこそ、周縁部は存在出来るのである。
中心は、周縁が無くても存在するが、周縁は、中心が無ければ存在出来ない。
筆者がいくら、ディオゲネスはポリス(国家)という枠を超えていると言っても、頑強なポリスという中心的な政体が無ければディオゲネスは好きに生きてゆけないのである。ディオゲネスの生計を支えていたのは結局ポリス市民だったという意味でもそうである。
又、「自由・平等・友愛」を基に世界市民主義を目指したのがディオゲネスで、著者(ディオゲネスでなくて)は、「足る」ということを強調し、「最も必要なもの」だけの国家、という概念を世界市民主義に欠かせない要素として論証する。
それが完全に達成されるのは、一つの言語・文化しか存在出来ない、非常に均一な小さなグループ内でしかあり得ないのは明らかであろう。
細かい議論を抜きにして、大雑把に言うと、これって農村共産主義ですよね。
しかも戦争は永遠に放棄されると言うが、その論拠がよく分からない。
私は、多くの差異(差別ではなく)があったほうが楽しいし、現実にあるのだから、そんな均一な社会に住みたいとは思わない。
それに、ヒトって、基本的に過剰な存在ですよね。量(人数)も質も。
地球上で唯一過剰な存在で、もし過剰でなくギリギリに抑制された存在なら、科学も文化も存在しない。だってヒトが種として生きるだけならそんなもの必要無いから。
著者が服を着て、美味しいモノ食べて、本を書いて、ネットでそれを買えるなんていうのは過剰の真骨頂じゃないでしょうか。どれ一つ無くても生きていけますけど(生きるだけなら)。
この本がスゴいのは、最後の一章をまるまる、山川氏の「世界市民主義」論に当てられているところで、あれ、この本ってディオゲネスの本じゃなかったっけ…というツッコみを大抵の読者はするのではなかろうか?
多分、ディオゲネス御本人は、古代社会の芸能民的な哲学者であったに過ぎず、意外と面白い人だったと思う。
嫌なヤツだったかもしれないけど。
いずれにしろ、ディオゲネスはもっと肩肘張らない、変なオッサンだったと思いますよ私は。
最後に蛇足ながら、山川氏は本を通して、一貫して徹底的にアレクサンドロス大王を非難・軽蔑する。
しかし、プラトンもアリストテレスも勿論ディオゲネスも、後代のローマで言えばキケローも、現代で言えばハイデガーもドゥルーズも、哲学者の語る理想国家は一度も、地球上に成立することは無かった。
政治家や宗教家や科学者が持つ、現実的なヴィジョンとエネルギーを、なぜ哲学者が歴史上一度も持てていないのか、そこをもう少し考えてくれてもいいような気がする。
この本は、それを基に膨大な知識を駆使して、ディオゲネス像を構築している。
著者の博識ぶりはかなりすさまじく、その綿密な考証・実証には頭が下がる。
その労には敬意を表するが、しかし、何と言っても偏り過ぎている。
著者の哲学を、ディオゲネスを隠れ蓑にして展開している、とさえ言える程である。
大変申し訳ないが、「世界市民主義」なんて言ったって、今時リアルではないのである。
唯一現実に世界市民主義が成立するとすれば、共産主義の小国家であろうが、岩波文化人臭くて勘弁してほしい。
とにかく主張が極端過ぎてついてゆけない。
ディオゲネスが反権威主義から上下関係を逆転させる(ノミスマをパラハラッティンする、という表現がとられる)ことを使命とした、と真面目に言われるが、下(ディオゲネス)が上下を逆転させるとしたら、逆転後には自分が上になってしまうのであり、それならその後に自分を又下に落とさなければならない筈である。永遠のループである。
しかし、「哲学者列伝」には、ディオゲネスが上に噛みつくエピソードしか出てこない。
これを哲学や政治の姿勢として大真面目に取るのであれば、皮肉にも、御自分が非常な権威者となってしまうのである。
しかも批判を封じる程強権的な。
しかしもっと気楽に考えれば、価値観の上下逆転と言えば、「笑い」の本質であり、ギリシアの同時代人は、ディオゲネスの言行を「笑い」として受け止めていたのではなかろうか?
それはルキアノスの嘲笑と同種のものである。
特にギリシアの場合、よく自由な民主制と誤解されるが、実体はポリスが絶対的存在で、ポリスこそ神であり、ポリスのためには命を捨てることも平気で強要され、成人男性市民もそれを普通のことと考えていた。
「運命神」がゼウスより上位の神と考えられていたことからも分かるように、ポリス絶対主義からくる窮屈感、「全てはポリスのために」という社会で、市民は多かれ少なかれ諦念を抱いていただろう。
ディオゲネスの「笑い」は大きなインパクトを与え、市民は喜び、楽しんだに違いない。普通の市民ならとてもそんな言行は許されないのだから。
であるから、ディオゲネスのような人物は古代ギリシアでは、都市の周縁にいなければ活動出来ないのは当然であろう。
寧ろ言い方としては、周縁でなければ存在を許されない。
しかし、別の角度から見れば、コアの中心があればこそ、周縁部は存在出来るのである。
中心は、周縁が無くても存在するが、周縁は、中心が無ければ存在出来ない。
筆者がいくら、ディオゲネスはポリス(国家)という枠を超えていると言っても、頑強なポリスという中心的な政体が無ければディオゲネスは好きに生きてゆけないのである。ディオゲネスの生計を支えていたのは結局ポリス市民だったという意味でもそうである。
又、「自由・平等・友愛」を基に世界市民主義を目指したのがディオゲネスで、著者(ディオゲネスでなくて)は、「足る」ということを強調し、「最も必要なもの」だけの国家、という概念を世界市民主義に欠かせない要素として論証する。
それが完全に達成されるのは、一つの言語・文化しか存在出来ない、非常に均一な小さなグループ内でしかあり得ないのは明らかであろう。
細かい議論を抜きにして、大雑把に言うと、これって農村共産主義ですよね。
しかも戦争は永遠に放棄されると言うが、その論拠がよく分からない。
私は、多くの差異(差別ではなく)があったほうが楽しいし、現実にあるのだから、そんな均一な社会に住みたいとは思わない。
それに、ヒトって、基本的に過剰な存在ですよね。量(人数)も質も。
地球上で唯一過剰な存在で、もし過剰でなくギリギリに抑制された存在なら、科学も文化も存在しない。だってヒトが種として生きるだけならそんなもの必要無いから。
著者が服を着て、美味しいモノ食べて、本を書いて、ネットでそれを買えるなんていうのは過剰の真骨頂じゃないでしょうか。どれ一つ無くても生きていけますけど(生きるだけなら)。
この本がスゴいのは、最後の一章をまるまる、山川氏の「世界市民主義」論に当てられているところで、あれ、この本ってディオゲネスの本じゃなかったっけ…というツッコみを大抵の読者はするのではなかろうか?
多分、ディオゲネス御本人は、古代社会の芸能民的な哲学者であったに過ぎず、意外と面白い人だったと思う。
嫌なヤツだったかもしれないけど。
いずれにしろ、ディオゲネスはもっと肩肘張らない、変なオッサンだったと思いますよ私は。
最後に蛇足ながら、山川氏は本を通して、一貫して徹底的にアレクサンドロス大王を非難・軽蔑する。
しかし、プラトンもアリストテレスも勿論ディオゲネスも、後代のローマで言えばキケローも、現代で言えばハイデガーもドゥルーズも、哲学者の語る理想国家は一度も、地球上に成立することは無かった。
政治家や宗教家や科学者が持つ、現実的なヴィジョンとエネルギーを、なぜ哲学者が歴史上一度も持てていないのか、そこをもう少し考えてくれてもいいような気がする。
2018年6月24日に日本でレビュー済み
くだくだとこの著者のようにレビューする気はないが、
ディオゲネスには一本筋の通ったものは感じるが、
それがなんらかの主義主張に繋がる事とは無関係と思う。
その辺りこの著者は何か説明のつくものを見出さねばならんというような、学者特有の病気に罹っていると感じる。
あとは単純にディオゲネスの魅力を感じる部分が出てくるまで、長い。苦労は認めるが、誰かに読ませる本としては余りに不要な部分が多すぎる。そしてディオゲネスの面白みを、拙い文章が面白くなくしている。
それでもこの面白くない文章を読んでいてもディオゲネスは面白いと感じるのだから、
ディオゲネスはすごいなぁと思う。
ディオゲネスには一本筋の通ったものは感じるが、
それがなんらかの主義主張に繋がる事とは無関係と思う。
その辺りこの著者は何か説明のつくものを見出さねばならんというような、学者特有の病気に罹っていると感じる。
あとは単純にディオゲネスの魅力を感じる部分が出てくるまで、長い。苦労は認めるが、誰かに読ませる本としては余りに不要な部分が多すぎる。そしてディオゲネスの面白みを、拙い文章が面白くなくしている。
それでもこの面白くない文章を読んでいてもディオゲネスは面白いと感じるのだから、
ディオゲネスはすごいなぁと思う。
2008年3月22日に日本でレビュー済み
「犬儒派」と揶揄されたディオゲネスについてのおそらく本邦初の入門書にして本格的な解説書だろう。本書の主人公ディオゲネスとは別人のディオゲネス・ラエルティオスによる『ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫)と対照した「トピックス」が巻末に掲載されているのを見てもわかる通り、「犬の生活」を送った哲学者の生涯を精密に検討している。
こうしたスタイルは、いまや哲学思想研究においては古典的なスタイルと言えるが(文学研究では一層)、犬(ディオゲネス)の場合、テキストが残されていないこともあって正攻法だと言う他ない。
樽(本書では甕)の中で生きていた犬、ぼろぼろの布切れを身にまとってうろつく犬、カンテラを掲げて「人間はどこにいる」と嘯く犬。何という魅力的な犬であろうか。こうしたエピソード(トピック)の断片をジグソーパズルを扱うようにして構成していったのが本書なのだ。
これは労作である。しかも、達意の文章が大変面白く読ませる。
通貨変造事件など、本書で初めて知った。ますます興味深いではないか。こうしたエピソードは結構錯綜しているが、著者の推理も含めた構想力は周到と思える。ただし、精緻な面、やや辛抱強い読書も要する。
世界市民云々については、判断しにくい面もあると思ったが、決してお題目ではない。この手の作品では、大概そうなるのであるが。
小説『肝心の子供』でブッダとその家族を描いた磯崎憲一郎は、本書を読んで犬儒派ディオゲネスを次のテーマにしたらどうか? それは要らぬお節介であるが、『哲学者ディオゲネス』を読んでいて一番に思い出したのは、磯崎の『肝心の子供』だった。ちょっと突飛だろうか?
こうしたスタイルは、いまや哲学思想研究においては古典的なスタイルと言えるが(文学研究では一層)、犬(ディオゲネス)の場合、テキストが残されていないこともあって正攻法だと言う他ない。
樽(本書では甕)の中で生きていた犬、ぼろぼろの布切れを身にまとってうろつく犬、カンテラを掲げて「人間はどこにいる」と嘯く犬。何という魅力的な犬であろうか。こうしたエピソード(トピック)の断片をジグソーパズルを扱うようにして構成していったのが本書なのだ。
これは労作である。しかも、達意の文章が大変面白く読ませる。
通貨変造事件など、本書で初めて知った。ますます興味深いではないか。こうしたエピソードは結構錯綜しているが、著者の推理も含めた構想力は周到と思える。ただし、精緻な面、やや辛抱強い読書も要する。
世界市民云々については、判断しにくい面もあると思ったが、決してお題目ではない。この手の作品では、大概そうなるのであるが。
小説『肝心の子供』でブッダとその家族を描いた磯崎憲一郎は、本書を読んで犬儒派ディオゲネスを次のテーマにしたらどうか? それは要らぬお節介であるが、『哲学者ディオゲネス』を読んでいて一番に思い出したのは、磯崎の『肝心の子供』だった。ちょっと突飛だろうか?
2018年2月24日に日本でレビュー済み
この本は、ディオゲネスの思想や人物の純粋な評論文ではない。
世界市民という考えをキーワードに著者の山川氏による英語で書かれた論文の整理と考察である。
そのため、ディオゲネスの思想を掴んだりする入門書ではない。
世界市民という考えをキーワードに著者の山川氏による英語で書かれた論文の整理と考察である。
そのため、ディオゲネスの思想を掴んだりする入門書ではない。
2017年5月16日に日本でレビュー済み
ディオゲネス、世界市民主義に強い関心があったので楽しみにしていたのだが、がっかりした。
必要のない逸脱、必要のない数式、締まりのない検証、そして説得力のない独断。研究者だからといって、たんに調べたこと、考えたことを書けばそれで良いというものではない。読み手への配慮がまったく足りない。
もちろん筆者の並々ならぬ情熱は伝わってくる。この本に費やされただろう労力を考えると、たしかに頭が下がる思いにもなる。役立つ知識・見識も無論あった。しかし叙述の面から言えば、学者の独りよがり、書き手の怠慢としか言いようがないほど、弛んでいる。
編集者の責任も大きいだろう。非常に残念だが、講談社学術文庫への信憑も落ちてしまった。
必要のない逸脱、必要のない数式、締まりのない検証、そして説得力のない独断。研究者だからといって、たんに調べたこと、考えたことを書けばそれで良いというものではない。読み手への配慮がまったく足りない。
もちろん筆者の並々ならぬ情熱は伝わってくる。この本に費やされただろう労力を考えると、たしかに頭が下がる思いにもなる。役立つ知識・見識も無論あった。しかし叙述の面から言えば、学者の独りよがり、書き手の怠慢としか言いようがないほど、弛んでいる。
編集者の責任も大きいだろう。非常に残念だが、講談社学術文庫への信憑も落ちてしまった。