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日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2002/1/10
金谷 武洋
(著)
「文法」が日本語を迫害している。「主語がよく省略される」から「非論理的」まで、100年にわたり「日本語」に貼られてきたレッテルを一刀両断する! 「愛らしい」「赤ん坊だ」「泣いた」――日本語の基本文はこの3種で必要十分である。英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を完璧に論破する、すべての日本語話者、必携の書。(講談社選書メチエ)
日本語文法の常識を覆す、画期的日本語論。日本語は曖昧な言語ではない。曖昧に見えるのは、英語文法をむりやり当てはめるからだ。海外で長年日本語教育にたずさわる著者が明解に説く、「日本語の真実」。
日本語文法の常識を覆す、画期的日本語論。日本語は曖昧な言語ではない。曖昧に見えるのは、英語文法をむりやり当てはめるからだ。海外で長年日本語教育にたずさわる著者が明解に説く、「日本語の真実」。
- ISBN-104062582309
- ISBN-13978-4062582308
- 出版社講談社
- 発売日2002/1/10
- 言語日本語
- 寸法12.9 x 1.6 x 18.9 cm
- 本の長さ256ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
日本語は曖昧な言語ではない。曖昧に見えるのは、英語文法をむりやり当てはめるからだ。海外で長年日本語教育に携わる著者が、「主語」信仰を論破し、「日本語」に張られてきたレッテルを覆す、画期的日本語文法論。
著者について
■金谷武洋(かなやたけひろ)
1951年北海道生まれ。東京大学教養学部卒業。ラヴァル大学で修士号(言語学)、モントリオール大学で博士号(言語学)取得。専門は類型論、日本語教育。カナダ放送協会国際局などを経て、現在、モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長。著書に、『JOURNAL CAJLE』(共編書)などがある。
1951年北海道生まれ。東京大学教養学部卒業。ラヴァル大学で修士号(言語学)、モントリオール大学で博士号(言語学)取得。専門は類型論、日本語教育。カナダ放送協会国際局などを経て、現在、モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長。著書に、『JOURNAL CAJLE』(共編書)などがある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2002/1/10)
- 発売日 : 2002/1/10
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 256ページ
- ISBN-10 : 4062582309
- ISBN-13 : 978-4062582308
- 寸法 : 12.9 x 1.6 x 18.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 162,634位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
国語や英語の文法を今まで学校で習ってきて、そのわかりにくさに理解することをあきらめていたが、この本でようやくその正体がわかった。文法はそもそも具体的に発話している事象の「後追い」の知識だったはずだが、歴史の流れから英語に無理合わせた固定観念の文法だったんだ。この本に書いていることで他人と議論をしようとは思わないが、自分なりに日本語や英語の知的探究心が満たされてよかった。
2021年7月18日に日本でレビュー済み
著者の金谷武洋さんの母語は日本語ですが、カナダのケベック州でフランス語と英語のバイリンガルの生活をしています。日本の大学でフランス語とフランス文化を学んだ後に、カナダの大学院に進学し、そこで言語学の修士号と博士号を取得し、フランス語や英語を母語とする学生たちに日本語を教えています。その体験は貴重です。日本語を外側から見ることができます。
私は著者ほどでありませんが、職場で英語で話し英語で文章を書くことが多々あります。そこで日本語と英語の言語としての発想の違いを何度も体験してきました。外国語を話したり外国語の文章を書いたりした経験がある人なら皆感じることを著者は三上章の文法を背景に説明してくれます。
日本語を英語やフランス語を比べる時「主語」と言われる概念が大きく異なることに気付かされます。日本語を英語に、あるいは英語を日本語に訳すとします。逐語訳で済ませられるのは受験生までです。同じ場面で同じことを他人に伝える時に、それぞれの言語でどう言うか。それを考えるのが翻訳です。日常会話ではそれを無意識のうちに行なっています。その時に気付かされるのが、日本語と英語の発想の大きな違いです。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と川端康成が書きましたが、同じ場面を英語の母語話者はどう表現するか。After passing through the long tunnel at the border, I found we were in snow countryとでも訳しましょうか。英語はまず主語を決めないといけません。日本語の母語話者が『雪国』の冒頭を読むとき主語を意識しているか。いないと思います。外国人を花見に連れて行ったとします。日本語で「この花は」と言う場面で英語ならどう言うか。These flowers areと複数形を使います。日本語の母語話者は印欧語にある数の概念を意識していません。日本語に文法でいう数の概念がないのです。それなら日本語に文法的意味での主語の概念がないと言っても良いではないか。それのどこがいけないのでしょう。著者は様々な例を挙げて日本語に印欧語の文法でいう主語の概念がないことを説明しています。
この本は、生活の中で外国語に触れている人や外国語を学ぶ人、日本語について考える人に有益な情報を与えてくれます。しかし、著者の金谷武洋さんと金谷さんの著書は文学部関係者から猛烈なバッシングに遇っています。著書へのバッシングが人格にまで及ぶのは日本の文学部ならではです。学術の世界では発言者の人格は学術とは別の問題です。何故なのか考えてみました。
日本の文学部の方言に「研究者」と「研究家」があります。作者と作家を比べると後者が偉いと感じます。独身者に対して「独身家」という言葉を作ってみると分かりますが、前者はたまたま独身なのに対し後者は何かの主張があって独身を貫いているように感じます。ですが、文学部で使われる意味は違います。研究者は大学の教員を、研究家は大学に属さない人を言います。
大学にいる「研究者」は研究をしているのか。海外の言語学者が書いた本を読んで、それを日本に紹介したり、日本語に適用してみたりはしています。それは研究なのか。私には「勉強」に見えます。Scopusで名前を検索してみると、世界が論文と認めるような論文を全く書いたことがない人が殆どです。
勉強した結果を他人に教える人を何と言いますか。「教師」です。定説をまとめた本を何と言いますか。「教科書」です。今まで誰も気付かなかったことを発見するのが研究です。研究者は新しい学説を唱える人を言います。論文には自分が発見したことを書きます。他人の発見を紹介するのは教科書です。大学の「研究者」は研究をせず、代わりに勉強をして、学んだことを紹介するだけです。
「研究者」ならぬ「勉強者」は「本に書いてあることは全て正しい」「大学の教授の口から出る言葉は全て真実である」と受験生さながらに考えます。だから、自分が習ったことと違う「論文」や「研究書」を見ると、それは間違いだと言って排除しようとします。大学にいる「研究者」を「教師」、彼らが書く「論文」を「講義資料」と考えると謎が解けます。
本物の研究は未知と既知の境界で為されるものです。「アインシュタインが言ったから正しい」と考える理系の学生はいません。「誰も気付かなかったことを発見したからアインシュタインは偉い」と考えるのが正しい態度です。しかし「勉強者」は「チョムスキーが言ったから正しい」と本気で考えているようです。少しでも本物の研究を体験しているならばチョムスキーの仮説を妄信することはありません。受験生が塾の講師の発言や受験参考書の記述を正しいと考えるのは仕方ありません。既に定説となったことを述べているからです。しかし日本語に主語があるかないかは研究の途上です。日本の文学部の教員がそれを見分けられないのは本物の研究をしていないからだと思います。
この本に対する批判を見ると
1 生成文法を誤解している
2 クレオールとピジンの定義を誤解している
というものです。しかし生成文法を誤解した国語学教授の本は何百冊、言語学の用語を誤解した論文は何千本もあります。その間違いは指摘しないのですか。論理学を誤解した哲学教授の論理学の教科書もありますよ。なぜ批判しないのでしょう。身内の人間だからです。村の外の人間だからこそ徹底して粗を探すのかもしれません。同じように徹底して身内同士で相互批判をすれば日本の文学部も本物の研究ができるようになるのになと思います。
では「日本語に主語がいらない」という点についてはどうか。私の調べた限りありません。本質でない1や2に誤解がたとえあったとしても、この本の根幹である日本語の主語の有無に関して正面からの批判はありません。この本でマクドナルドのレシピが全世界共通とあるのを牛肉を食べないインドでは違うというような揚げ足取りの批判をもって全体を否定しようとする意見さえあります。この本を他の人が好意的に引用するのが許せないという感情的な意見もありました。
この本を否定する人たちは恐らく外国語を話したり外国語の文章を書いたりした経験がないか、とても少ないのだと思います。受験勉強の和文英訳は違いますよ。あれは直訳する練習です。同じ場面で英語なら何と表現するか。それが翻訳です。その時に文の構造が著しく違うことを体験した人は多いと思います。そういう体験がなく、英語の主語と日本語の主語と言われるものとが同じだと信じて疑わない人はこの本の価値に気付かないと思います。英文直訳のような日本語を生成文法で説明して、生成文法の仮説は正しいと思ってはいけません。「象は鼻が長い」「僕はカツカレーだ」のような日本語の母語話者が日常話す日本語を分析できなくては生成文法が成功したとは言えません。
なお表題はJohann Wolfgang von Goetheの有名な言葉
Wer fremde sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.
を私なりに超訳したものです。ゲーテはストラスブール大学でフランスを学んでいます。ストラスブールは映画の「最後の授業」の舞台ともなった独仏国境のアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)にある都市です。
私は著者ほどでありませんが、職場で英語で話し英語で文章を書くことが多々あります。そこで日本語と英語の言語としての発想の違いを何度も体験してきました。外国語を話したり外国語の文章を書いたりした経験がある人なら皆感じることを著者は三上章の文法を背景に説明してくれます。
日本語を英語やフランス語を比べる時「主語」と言われる概念が大きく異なることに気付かされます。日本語を英語に、あるいは英語を日本語に訳すとします。逐語訳で済ませられるのは受験生までです。同じ場面で同じことを他人に伝える時に、それぞれの言語でどう言うか。それを考えるのが翻訳です。日常会話ではそれを無意識のうちに行なっています。その時に気付かされるのが、日本語と英語の発想の大きな違いです。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と川端康成が書きましたが、同じ場面を英語の母語話者はどう表現するか。After passing through the long tunnel at the border, I found we were in snow countryとでも訳しましょうか。英語はまず主語を決めないといけません。日本語の母語話者が『雪国』の冒頭を読むとき主語を意識しているか。いないと思います。外国人を花見に連れて行ったとします。日本語で「この花は」と言う場面で英語ならどう言うか。These flowers areと複数形を使います。日本語の母語話者は印欧語にある数の概念を意識していません。日本語に文法でいう数の概念がないのです。それなら日本語に文法的意味での主語の概念がないと言っても良いではないか。それのどこがいけないのでしょう。著者は様々な例を挙げて日本語に印欧語の文法でいう主語の概念がないことを説明しています。
この本は、生活の中で外国語に触れている人や外国語を学ぶ人、日本語について考える人に有益な情報を与えてくれます。しかし、著者の金谷武洋さんと金谷さんの著書は文学部関係者から猛烈なバッシングに遇っています。著書へのバッシングが人格にまで及ぶのは日本の文学部ならではです。学術の世界では発言者の人格は学術とは別の問題です。何故なのか考えてみました。
日本の文学部の方言に「研究者」と「研究家」があります。作者と作家を比べると後者が偉いと感じます。独身者に対して「独身家」という言葉を作ってみると分かりますが、前者はたまたま独身なのに対し後者は何かの主張があって独身を貫いているように感じます。ですが、文学部で使われる意味は違います。研究者は大学の教員を、研究家は大学に属さない人を言います。
大学にいる「研究者」は研究をしているのか。海外の言語学者が書いた本を読んで、それを日本に紹介したり、日本語に適用してみたりはしています。それは研究なのか。私には「勉強」に見えます。Scopusで名前を検索してみると、世界が論文と認めるような論文を全く書いたことがない人が殆どです。
勉強した結果を他人に教える人を何と言いますか。「教師」です。定説をまとめた本を何と言いますか。「教科書」です。今まで誰も気付かなかったことを発見するのが研究です。研究者は新しい学説を唱える人を言います。論文には自分が発見したことを書きます。他人の発見を紹介するのは教科書です。大学の「研究者」は研究をせず、代わりに勉強をして、学んだことを紹介するだけです。
「研究者」ならぬ「勉強者」は「本に書いてあることは全て正しい」「大学の教授の口から出る言葉は全て真実である」と受験生さながらに考えます。だから、自分が習ったことと違う「論文」や「研究書」を見ると、それは間違いだと言って排除しようとします。大学にいる「研究者」を「教師」、彼らが書く「論文」を「講義資料」と考えると謎が解けます。
本物の研究は未知と既知の境界で為されるものです。「アインシュタインが言ったから正しい」と考える理系の学生はいません。「誰も気付かなかったことを発見したからアインシュタインは偉い」と考えるのが正しい態度です。しかし「勉強者」は「チョムスキーが言ったから正しい」と本気で考えているようです。少しでも本物の研究を体験しているならばチョムスキーの仮説を妄信することはありません。受験生が塾の講師の発言や受験参考書の記述を正しいと考えるのは仕方ありません。既に定説となったことを述べているからです。しかし日本語に主語があるかないかは研究の途上です。日本の文学部の教員がそれを見分けられないのは本物の研究をしていないからだと思います。
この本に対する批判を見ると
1 生成文法を誤解している
2 クレオールとピジンの定義を誤解している
というものです。しかし生成文法を誤解した国語学教授の本は何百冊、言語学の用語を誤解した論文は何千本もあります。その間違いは指摘しないのですか。論理学を誤解した哲学教授の論理学の教科書もありますよ。なぜ批判しないのでしょう。身内の人間だからです。村の外の人間だからこそ徹底して粗を探すのかもしれません。同じように徹底して身内同士で相互批判をすれば日本の文学部も本物の研究ができるようになるのになと思います。
では「日本語に主語がいらない」という点についてはどうか。私の調べた限りありません。本質でない1や2に誤解がたとえあったとしても、この本の根幹である日本語の主語の有無に関して正面からの批判はありません。この本でマクドナルドのレシピが全世界共通とあるのを牛肉を食べないインドでは違うというような揚げ足取りの批判をもって全体を否定しようとする意見さえあります。この本を他の人が好意的に引用するのが許せないという感情的な意見もありました。
この本を否定する人たちは恐らく外国語を話したり外国語の文章を書いたりした経験がないか、とても少ないのだと思います。受験勉強の和文英訳は違いますよ。あれは直訳する練習です。同じ場面で英語なら何と表現するか。それが翻訳です。その時に文の構造が著しく違うことを体験した人は多いと思います。そういう体験がなく、英語の主語と日本語の主語と言われるものとが同じだと信じて疑わない人はこの本の価値に気付かないと思います。英文直訳のような日本語を生成文法で説明して、生成文法の仮説は正しいと思ってはいけません。「象は鼻が長い」「僕はカツカレーだ」のような日本語の母語話者が日常話す日本語を分析できなくては生成文法が成功したとは言えません。
なお表題はJohann Wolfgang von Goetheの有名な言葉
Wer fremde sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.
を私なりに超訳したものです。ゲーテはストラスブール大学でフランスを学んでいます。ストラスブールは映画の「最後の授業」の舞台ともなった独仏国境のアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)にある都市です。
2023年4月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
Kindle版を購入したところ、PDFのように紙面をそのまま画像にしたような形式でした。
イラストやカラーページが大半のものなら分かりますが、文字主体の本でコレは一体どういう判断なのか…しかもそれで250ページほどという極めて短い本なのに。
内容は大変興味深く新鮮なものでしたが、とにかく読みにくく閉口しました。。。
イラストやカラーページが大半のものなら分かりますが、文字主体の本でコレは一体どういう判断なのか…しかもそれで250ページほどという極めて短い本なのに。
内容は大変興味深く新鮮なものでしたが、とにかく読みにくく閉口しました。。。
2018年9月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本語に人称代名詞がない理由が本書で良く理解出来た。英語、フランス語などでは主語が決まらないと動詞の活用形が決まらないのだ。であるから、Je suis, Io sono, Yo soy, Eu sou, Eu sunt(フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語)のように1種類なのである。
日本語では私、僕、俺、自分、小生など何種類もある。「あなた」という言葉も通常の生活で使用する場面が思いつかない。家族なら名前、職場では苗字又は役職、見ず知らずの人には「お宅さん」とか、声掛けする場合は「すみません」等であろう。普段使用しない言葉が人称代名詞の筈がない。 実は日本語でも良く使う代名詞は存在する。それは「これ、それ、あれ、どれ」等の指示代名詞である。当然一種類だ。
但し、他の外国語を習う以上は主語という言葉自体はこれからも使い続けられるのだろう。日本語に人称代名詞も主語も必要ないことをしっかり認識していれば逆に外国語を学ぶ際に役に立つこともあるのではないか。
日本語は素晴らしい言語だと思っていたが、この本を読んで日本語に劣等感を抱く人がいたことを知って驚かされるばかりだ。
日本語では私、僕、俺、自分、小生など何種類もある。「あなた」という言葉も通常の生活で使用する場面が思いつかない。家族なら名前、職場では苗字又は役職、見ず知らずの人には「お宅さん」とか、声掛けする場合は「すみません」等であろう。普段使用しない言葉が人称代名詞の筈がない。 実は日本語でも良く使う代名詞は存在する。それは「これ、それ、あれ、どれ」等の指示代名詞である。当然一種類だ。
但し、他の外国語を習う以上は主語という言葉自体はこれからも使い続けられるのだろう。日本語に人称代名詞も主語も必要ないことをしっかり認識していれば逆に外国語を学ぶ際に役に立つこともあるのではないか。
日本語は素晴らしい言語だと思っていたが、この本を読んで日本語に劣等感を抱く人がいたことを知って驚かされるばかりだ。
2015年4月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本語という独自の言葉を良く見つめている。
本来言語に優劣などなく、どの言語も体系として完成していることを踏まえ、日本語は主語を必要としない言葉であることを実証している。
何よりも著者の書いている文章自体が、そのことを明瞭に具現している。
本来言語に優劣などなく、どの言語も体系として完成していることを踏まえ、日本語は主語を必要としない言葉であることを実証している。
何よりも著者の書いている文章自体が、そのことを明瞭に具現している。
2021年9月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
It is not possible to use the dictionary facility to look up unknown words In the kindle edition. If I had known this I might have bought the paper edition.
2013年10月18日に日本でレビュー済み
実は本書のことも本書の著者のこともまったく知らなくって、たまたま大手古書店の105円コーナーで見つけて衝動買いしたのだが...いや、こんな面白い言語(論)関係の本は、池上嘉彦のもの以来です!
まず、日本語に「主語」は要らない、ネイティブである我々は、日常的にそう感じている、あるいは無意識に知っているのですが、さすがに、言語学的、文法的にはなかなかスパッと言い切れない。
そこを、著者は、「オッカムの剃刀」でもって、不要な髭をジョリジョリと剃ってくれるのです。
その切れ味はまことに鋭いが、専門家専門家していないところがよい。途中、仕方なく「ジャーゴン」が頻出する頁もあり、章によって、話題によって、多少難易度にデコボコがありますが、とにかく、日常の言語体験に根ざした分かりやすさを目指しており、コトバに興味がおありなら、専門的な知識がなくとも、そう、高校生にでもある程度は読めるくらいです。
著者は、モントリオールで(主に)フランス語を使う学生に日本語を教えているらしいのですが、そこでの試行錯誤が出発点となって、本書が生まれています。そこでは、われわれ島国に閉じこもったネイティブには経験しようのない、現在の英語に侵された日本語文法に対する怨嗟の泥沼があります。そして、そこから身を起こしたところに、本書の類まれなる魅力があふれています。
たとえば、ガイジンから、アイラブユーとかジュテームとか、日本語でなんていうの?って聞かれたら、なんて教えてあげます?
「私はあなたを愛しています」ですか?
でも、普段そういう日本語を、あなたは発話してますか? 小説なんかでそういった登場人物の会話を読んだこと、ありますか?
親切に教えるなら、相手が男性だったら「(君の事)愛してるよ」相手が女性だったら、「(あなたのこと)愛してるわ」ですよね。さて、主語はどこ行った〜〜!!??
また、本のタイトルとは別に、というか、それから派生して、「自動詞と他動詞」の分析もすごいです。
英語をいくら勉強しても、どうしても身に付かない。そういう人(私もですが)は逆にこういった本を読むと、日本語と英語の本質的な違いが見えてきて、資するところ大かもしれません。
まず、日本語に「主語」は要らない、ネイティブである我々は、日常的にそう感じている、あるいは無意識に知っているのですが、さすがに、言語学的、文法的にはなかなかスパッと言い切れない。
そこを、著者は、「オッカムの剃刀」でもって、不要な髭をジョリジョリと剃ってくれるのです。
その切れ味はまことに鋭いが、専門家専門家していないところがよい。途中、仕方なく「ジャーゴン」が頻出する頁もあり、章によって、話題によって、多少難易度にデコボコがありますが、とにかく、日常の言語体験に根ざした分かりやすさを目指しており、コトバに興味がおありなら、専門的な知識がなくとも、そう、高校生にでもある程度は読めるくらいです。
著者は、モントリオールで(主に)フランス語を使う学生に日本語を教えているらしいのですが、そこでの試行錯誤が出発点となって、本書が生まれています。そこでは、われわれ島国に閉じこもったネイティブには経験しようのない、現在の英語に侵された日本語文法に対する怨嗟の泥沼があります。そして、そこから身を起こしたところに、本書の類まれなる魅力があふれています。
たとえば、ガイジンから、アイラブユーとかジュテームとか、日本語でなんていうの?って聞かれたら、なんて教えてあげます?
「私はあなたを愛しています」ですか?
でも、普段そういう日本語を、あなたは発話してますか? 小説なんかでそういった登場人物の会話を読んだこと、ありますか?
親切に教えるなら、相手が男性だったら「(君の事)愛してるよ」相手が女性だったら、「(あなたのこと)愛してるわ」ですよね。さて、主語はどこ行った〜〜!!??
また、本のタイトルとは別に、というか、それから派生して、「自動詞と他動詞」の分析もすごいです。
英語をいくら勉強しても、どうしても身に付かない。そういう人(私もですが)は逆にこういった本を読むと、日本語と英語の本質的な違いが見えてきて、資するところ大かもしれません。
2002年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本国憲法は英語で書かれた草案を翻訳してできたという史実があるが、それ以前に、日本の国文法が英文法の和訳のようなシロモノであり、日本人の自然な言語感覚を反映したものでなかったことが改めて明らかにされる。日本語を英訳して分析するような方法が、国文法のあるべき姿を歪めているばかりか、日本語を学ぶ者を混乱させ、不自然な日本語を植え付けてしまう。「AはB。」イコール“A is B.”ではない。日本の国文法は、英文法の「S+V(+O)…」の概念による呪縛から開放されなければならない。