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完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2012/3/9

4.2 5つ星のうち4.2 10個の評価

完全解読シリーズ第4弾は、現象学の祖フッサール前期の代表作。主-客問題を批判し認識問題に大転換をもたらした画期的著作を読む。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2012/3/9)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2012/3/9
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本(ソフトカバー) ‏ : ‎ 296ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4062585278
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062585279
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 10個の評価

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竹田 青嗣
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カスタマーレビュー

星5つ中4.2つ
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上位レビュー、対象国: 日本

2021年7月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現象学者は沢山いる中で正しくこの竹田青嗣著の現象学に行き合ったことは、正しくラッキーだったと言う他はない。現象学の最良の本である。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2012年12月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現象学を理解出来る格好の本で、本質直感が良く理解出来る。多くの現象学に興味を持つ人にお勧め。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2016年6月2日に日本でレビュー済み
本書では他の竹田氏の現象学本同様、簡素な言葉でフッサール哲学が解説されている。本書の特徴は、フッサールの初期の作品である『現象学の理念』の章立てに合わせて構成されているので、自ら両書を手にして読解に挑むことで己の思考による現象学理解を深めやすいという点だろう。『現象学の理念』は竹田氏にとり西洋哲学のエッセンスを掴むことを可能にした初めての本であり、そのような読書体験を共有できるのは読み手にとっても幸いである。そしてこれを導きにして、現象学に賛成するなり反対するなりして自ら哲学していけば良いだろう…

と言いたいところなのだが一つだけ指摘したいことがある。それは竹田氏の現象学をフッサールのそれに根を持たぬ傍流であり「竹田現象学」と呼ぶあの考えである。これは言わずもがなことだと言わんばかりに、多くの者がこれを吹聴する。別に多様な考えがある分には問題ないし、いろいろな主張はあって然るべきだろう。だが私が問題だと思うのは、それのどの部分がどのようにフッサールから逸脱しているかの具体的な指摘を誰一人していないことである。このような状況はあたかも、マルクス主義者が誰も彼もブルジョワ呼ばわりしてその者の考えそのものを吟味しようともしないあの光景に似ている。退ける態度をとるならばそれなりの根拠が必要なのではないか。

竹田氏が本書で行った反現象学の三つの範疇は纏まりがあり説得力がある。彼によれば以下の三つ、即ち(1)客観主義的=自然的な態度と(2)フッサール現象学を超えて、人間存在の根拠をどこまでも探ろうとする態度と(3)ポストモダンなどの論理相対主義がある。第一の態度は認識問題そのもの、つまり客観性そのものが一つの謎であることに突き当たりもしない。デカルト、カントそしてもちろんフッサールの主観性哲学に触れるまで、多くはこの態度の内にいる(例えば、量子力学が生まれるに当たって、アインシュタインが頑なに古典的決定論または客観主義にしがみついたのを見るがいい)。第二の態度は、それがフッサール現象学のそれ以上遡れぬ超越論的主観性を己の世界解釈の暗黙の基礎にしながら、その存在根拠は何かと二度と辿り着けぬ答えを探してさまよう。第三の立場は、なるほど古い世界解釈を解体(お望みなら脱構築)するにはもってこいだが、自分が自分のパースペクティブを絶対化していることには目を瞑る相対主義だ。

現象学はこれらとは違い、誰もがまったく知らない間に前提としている主観性から(そしてこれのみから)発して、様々な現象、即ち自然、空間、時間、文化、社会、思想、価値等々を見て考えようとする。主観性の宇宙を開拓する。繰り返すようだが、これは己の主観的経験から汲み上げられるものであって、この態度は現象学まで首尾一貫して取られたことはなかった。そしてこのことをこそ、竹田氏は幾度も幾度も現象学の要だと指摘しているのである。私はこの考えが非常に説得的に思われる。

現象学的基本テーゼ「主体から独立した客体というのはなく、全ては主観的なパースペクティブによるものだ」との直観それ自体が絶対的ではないという者もいるが、それはデカルトなりヒュームなりカントなりを遍歴するなどして、自分で真剣に考えたことがないからとしか思えない。「真の世界を説明するのはマルクス主義だ」や「あり得べき世界解釈があるならそれはポストモダニズムだ」と言うことはできる。だが前者は「実はそれは違ったのだ」とカール・ポパーの反証主義などへと移行しうるし、後者も「あれは間違っていた」と言ってハーバーマスのコミュニケーション論等に移行しうる。そしてこれらもまた別へと移ることもあるかもしれない。だが「全ては主観的だ」というのは、上のように言うことができない謂わば哲学的思考の限界点だ。なぜならそれを否認することが、まさしく己の主観から汲み出されるからだ。この直観こそ現象学の基底であり、竹田氏をも突き動かす当のものであろう。そして誰もが実はそれを知らず知らずに知っているのだと思う。

ベルクソンは、「運動からなら不動はいくらでもとり出せるが、不動からは運動を決して取り出せない」というようなことを言っていた。私もこれに倣い「主観からなら客観はいくらでもとり出せるが、客観からは主観を決して取り出せない」と言いたい。

長くなってしまったが、これは私が大学に入り、竹田氏の本から哲学を学び、その後「竹田現象学」の謗りを知ってからどんな哲学をも簡単には呑むまいと思い、フッサールの原典も含めて多くの読書をした末に至った結論である。竹田氏の解説は、基本的な点に関して、妥当性及び良心的な説明において正当性そのものである。無論、この考えも常に批判に晒されていなければならない。だが大いなる批判を受けることになるならば、その時は大いなる根拠によって没したいものである。
26人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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