お届け先を選択
Kindleアプリのロゴ画像

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません

ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。

携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

KindleアプリをダウンロードするためのQRコード

何か問題が発生しました。後で再度リクエストしてください。

宣教師ニコライとその時代 (講談社現代新書) 新書 – 2011/4/15

4.2 5つ星のうち4.2 12個の評価

幕末の文久元年(1861)7月、25歳の若きロシア人司祭が蝦夷地の箱館に到着しました。その名はニコライ。ロシア領事館付き司祭として正教を広めるという遠大な志を抱いて、この極東の島国にやってきたのです。それから約50年にわたって、彼は日本人にロシアのキリスト教を伝えるべく奮闘します。 ロシアに帰ったのは二回だけ。それも布教の資金を集めるための一時帰国でした。彼はロシアでは「ヤポンのニコライ」、日本では「(駿河台にある)ニコライ堂のニコライ」として知られ、多くの人びとの尊敬を集めました。永眠は明治45年(1912)2月16日。

高僧ニコライが厖大な日記を残していたことは知られていましたが、すべて関東大震災で消失したと信じられてきました。ところが、日記は震災前にペテルブルグの古文書館に移されており、ずっと眠っていたのです。そのことをつきとめたのが著者中村健之介氏でした。1979年のことです。

中村氏は日記の公刊、および翻訳という大事業に取り組むと同時に、その内容を一般向けに紹介すべく早い段階で『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書)を書きました(ただし、この段階では日記のすべては解明されていません)。その後、2004年に『聖・日本のニコライの日記』五巻(ロシア語原文)を刊行、そして2007年には、氏をふくむ19人の訳者による日本語翻訳版『宣教師ニコライの全日記』九巻(教文館)が、ようやく刊行されたのです。そこには当時の高官やジャーナリストから庶民に至るまでの姿が生き生きと描かれています。また日本各地の風景や産物が克明に記され、他に類のない貴重な記録となっています。さらにロシアへの一時帰国の際の記述からは、従来知られてこなかったロシア社会の実情も垣間見ることができます。

本書は全貌が明らかになった日記全体をふまえた上でのニコライ紹介であり、いわば決定版です。今年(2011年)はニコライ来日150 年、来年は没後100年にあたります。この節目の年に本書が刊行されることはまことに意義あることです。ぜひ多くの方々に読んでいただきたく思います。
続きを読む もっと少なく読む

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2011/4/15)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2011/4/15
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 352ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4062881020
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062881029
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 12個の評価

著者について

著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
中村 健之介
Brief content visible, double tap to read full content.
Full content visible, double tap to read brief content.

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう

カスタマーレビュー

星5つ中4.2つ
5つのうち4.2つ
12グローバルレーティング

この商品をレビュー

他のお客様にも意見を伝えましょう

上位レビュー、対象国: 日本

2012年3月1日に日本でレビュー済み
神田駿河台に立つニコライ堂。この聖堂を建てたロシア人宣教師ニコラ
イは1862年、25歳の時、シベリアを横断して、ロシア正教布教の
ため函館に渡って来た。幕末当時の日本、いや明治に入ってからですら
キリスト教は、弾圧というより、依然として根強い排斥を受けていた。
布教活動は零からの出発といっても過言ではなかった。その中で日本列
島を北から南まで隈なく歩き回り、キリスト教を受け容れてくれる日本
人を探し続けた。拠点となる教会も各地に建てなければならなかった。
当然、多大な金を要した。彼の50年にわたる日本での布教活動は精神
の孤独、肉体的疲労、金銭的心労に蔽われ尽くしていたといっても過言
ではない。しかし日本全国を旅して美しい自然に接した時は日頃の疲れ
を癒して余りある喜びを抱くことが出来たようである。

彼は日本に来る前、日本民族は非宗教的であるというロシアにおける一
般的認識を聞かされていた。しかし朝の日の出に向かって祈る多くの日
本人を見たニコライは、日本人は必ずしも非宗教的だとは言えないとい
う認識に達していた。しかしロシアを初めとするヨーロッパ人と比して
、日本人はより宗教的か?という問いに対するニコライの答えは本書で
は明らかにされてはいない。

本書は50年にわたるニコライの膨大な日記をレニングラードの文書館
倉庫の中で発見した中村健之介氏によって書かれたものだ。ニコライの
日記の全貌は、その整理編纂を経てやがて世に出るはずで、そこで初め
てニコライの目に映った日本人の宗教観もより鮮明になるに違いない。
それとともに幕末から明治の日本を隈なく行脚したニコライの日記は、
ともすれば支配者側の記録に偏り勝ちだった日本の歴史に新しい光を当
てることもあるはずである。ニコライは布教活動の運営資金に苦慮し続
けたので、当時の物価についても事細かに記している。興味深いことで
ある。

ニコライは1879年から1880年にかけてロシアに一時帰国してい
る。枯渇の危機すらあった布教資金の増額を教会本部を始め資金拠出を
頼めそうなあらゆる人々に頼んで回るのが、帰国の最大の目的だった。
幸いにもニコライは目標を上回る成果を上げ、以後、日本での布教活動
は安定した拡大期に入っていった。ロシア滞在中のニコライはさすがに
同胞に混じって、金策に飛びまわりながらも孤独感からの解放を味わっ
たようである。ドストエフスキーに面会する機会にも恵まれた。割合普
通の男で咳をしていて肺病病みのようだった、というのが文豪と会った
時の彼が抱いた印象で、深く感動したというほどのことはなかったよう
である。逆にドストエフスキーの方か、異教徒の黄色人の中でロシア正
教の布教に努めるニコライに感銘を覚えていたようである。

ともあれロシア帰国期間に関して、本書ではドストエフスキー文学とキ
リスト教との関わりについて、著者中村氏の思いがほとばしり出ている
ような気がした。中村氏がニコライの日記発見に至った糸口は実はドス
トエフスキーとニコライの間に交わされたと思われる手紙にあったから
だ。若き日、ドストエフスキーに傾倒した中村氏はドストエフスキーを
読みたいという単純な理由でロシア語を学んだ。ニコライとドストエフ
スキーという線から、ドストエフスキー文学にもっと深く入って行ける
のではないかというのが、中村氏がニコライの日記の探索を始めたきっ
かけだった。中村氏の情熱は関東大震災で日記は焼失したという日本人
の常識を超えて、アメリカ、ロシアへと彼に発掘の努力を諦めることな
く続けさせた。シュリーマンのトロイ遺跡発掘ほどファンタジックでは
ないが、中村氏が発掘時に味わったであろう興奮もまた想像するにあま
りあるものであったにちがいない。著者はその点では、あとがきでさら
りと触れるにとどめているが、幻の日記の発掘というものすごい成果の
うえに控えめに本書が載せられていることを踏まえると、この本に対す
る興味は一段と増さざるを得ない。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年9月20日に日本でレビュー済み
昔から御茶ノ水にはよく出かけたが、ニコライ堂という物理的な建造物に気が付くことはなかった。この地域こも高層ビルが多く、よほど近くまで行かないとその姿が見えないのではという印象がある。実はその物理的な建物に何度も出かけたこともあるが、そのほとんどが夜で、その姿を見た記憶は明瞭には無いようだ。

いつも不思議に思っていたのは、なぜロシア正教なるロシア帝政と不可分の存在が、明治の日本にその場を得たのかという疑問だった。誰がどんな経緯で入信したのだろう。本書は残念ながらこれらへの回答を明確に与えてくれるものではなかった。むしろ全編を通じて浮かび上がるのは、異国での教会経営の難しさだろうか。

教会経営もお金の調達とは不可分なのだ。教会の運営には膨大な費用が掛かる。そして本国ロシアで調達したお金の使い方をめぐりニコライと日本人正教徒との間にもちあがる対立。その背後にはおそらく宗教上の路線対立もあるのだろう。ただこの辺の生々しい話題の背景が深く詳述されることはない。むしろニコライという動と静の弁証的な力学が織りなす人物像が強い印象を残す。

となると本書の売りは何だろう。興味深いのは、ニコライがロシアへ帰国した際のニコライとドストエフスキーやソロヴィヨフとの一瞬の邂逅の部分だろうか。ニコライの長い人生から見るとあくまでも一瞬の接触なのだろうけど、中村氏はこの一瞬の邂逅の説き明かしに相当のスペースを割いている。「プーシキンの偶像化」と名付けられた部分は非常に面白い。ここには、20世紀初頭のロシアにおけるドストエフスキーの神話化のプロセスが簡潔にまとめられており、中村氏のドストエフスキー解釈のエッセンスが現れている。そしてソロヴィヨフという特異なパーソナリティの複雑さもその一端が示唆されている。またニコライの日記に現れる様々なシーンの描写をチェーホフの喜劇になぞらえた指摘(「あまりにもロシア的」)には納得がいった。ニコライも19世紀ロシアが生み出した1級の知識人なのだ。

ただ日本での布教活動の困難さとその結果をニコライが最後にどう総括していたかについてまでは言及されていない。

中村氏には、もう一つの類似の作品「宣教師ニコライと明治日本」がある。こちらの方が先に出版されているのでこちらを先に読んだ方がいいのかもしれない。そして日記そのものへ向かうことも必要なのだろう。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年2月25日に日本でレビュー済み
お茶の水のニコライ堂で有名な、ロシア正教会の宣教師ニコライ・カサートキンは、強靭な意志と壮健な肉体、精緻な観察眼と繊細な心を合わせ持った巨人でした。著者の中村健之介は、ニコライが残した膨大な量の日記のロシア語校正、翻訳、監修を手掛けたニコライ研究の第一人者です。
 私がその人に惹かれたのは、岩手県の山田・釜石間を二日かけて歩いた3年前の夏からです。ニコライが歩いた岩手の道を自分の足で歩きながら、彼の宣教の働きを思い、東日本大震災の爪痕を見ながら祈る二日間でした。山田ではニコライの宣教で救われた人物の子孫という方にもお会いしました。現在でも宣教困難な東北で、明治時代に最も実りある働きをしたニコライは、新島襄、後藤新平、内村鑑三、新井奥邃など当時の著名人たちにも強烈な印象と感化を残しています。彼はまた、日露戦争が勃発して多くのロシア人が日本を離れた時も、自分が導いた信徒たちのことを思い、危険を厭わず日本に踏みとどまった愛と勇気の人でした。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年4月17日に日本でレビュー済み
ロシア正教の宣教師ニコライの生涯が関連人物(ドストエフスキー、ソロヴィヨフ、トルストイ、府主教アントニイら)のエピソードを交えながら描かれている。ニコライのロシア文学の巨人たちに対する眼差しを紹介した第4章と第5章、一ロシア人としてのニコライの人物像を描いた第7章が読みどころか。ただ全体としては、ややまとまりを欠くエピソード集のような印象も残る。
2011年5月8日に日本でレビュー済み
・幕末にロシアから函館にやってきて、明治の終わりまで日本中で布教活動をしていた。
・ロシア人の宣教師なので、キリスト教といえどもロシア正教だ。
・函館に来たばかりの頃に、新島襄に家庭教師をしてもらっていた。古事記なんかを読み習っていた。
  *新島襄は、幕末に函館からアメリカへ密出国したが、明治新政府に留学生と認められ帰国した。同志社を創設。
・副島種臣や後藤新平とも交友があった。
・福沢諭吉を無神論の普及者だとして危険人物視していた。

・ロシアの文豪トルストイを「最低のタイプのプロテスタント」と酷評した。
  *事実、トルストイは、1901年、正教会から破門された。
  *対するドストエフスキーは、青年時代からナショナリストであり、愛国主義団体「スラブ慈善教会」の副会長も務めた。
・ニコライは、ドストエフスキーと同様に、プロテスタンティズムは不信の「錆び」に侵食された似非キリスト教と考えており、
 日本の正教徒がプロテスタント化するのを怖れていた。

・日本での活動資金の多くをロシアからの支援に依っていたので、情報将校(スパイ)のような稼業も担っていたのではないかと推測されるが、本書にはこの手の記述や考察はない。
・1912年(明治45年)永眠。来日して、ちょうど50年であった。つまり、50年もの長きにわたって日本を探察し続けたことになる。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート