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私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) 新書 – 2012/9/14
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- 本の長さ192ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2012/9/14
- 寸法10.8 x 1 x 17.2 cm
- ISBN-104062881721
- ISBN-13978-4062881722
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2012/9/14)
- 発売日 : 2012/9/14
- 言語 : 日本語
- 新書 : 192ページ
- ISBN-10 : 4062881721
- ISBN-13 : 978-4062881722
- 寸法 : 10.8 x 1 x 17.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 3,042位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 8位ロシア・東欧文学研究
- - 49位日本文学研究
- - 72位日本のエッセー・随筆
- カスタマーレビュー:
著者について
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。
1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。
以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在した。
美術、音楽にも造詣が深く、日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当(2009年~2016年)するなど、幅広いジャンルで批評を執筆。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催した。同年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。
また、各ジャンルのアーティストとのコラボレーションも積極的に行っている。
著書に、小説『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』等、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』等がある。
2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計58万部超のロングセラーとなっている。
2021年5月26日、長編小説『本心』(文藝春秋社)刊行。
photo: @ogata_photo
–
[受賞歴]
『日蝕』(1999年 芥川龍之介賞)
『決壊』(2009年 芸術選奨文部大臣新人賞受賞)
『ドーン』(2009年 Bunkamuraドゥマゴ文学賞)
『マチネの終わりに』(2017年 渡辺淳一文学賞)
『ある男』(2019年 読売文学賞)
–
[審査員・選考委員履歴]
三島由紀夫賞(2008年~2019年)
写真の町東川賞(2008年~2017年)
木村伊兵衛賞(2018年~)
芥川龍之介賞(2020年~)
イメージ付きのレビュー
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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【場面ごとに異なる自分】
平野さん自身が経験した違和感として、以下のような場面により異なる自分の現出がある。これらの場面で、どれが本当の個性であり、自分であるか戸惑った。
●カトリックの学校で友達とにぎやかに過ごす自分⇔家に帰り小説の世界に一人没頭する自分
●パリ留学中フランス語上位クラスで寡黙で陰気な自分⇔パリの日本人コミュニティの中で饒舌で陽気な自分
●大学の友人との飲み会に高校の友達が参加したときの居心地の悪さ
●対編集者、対母、対子供、対作家での自分
【ペルソナの問題】
ペルソナに代表されるように本当の自分があり、場面ごとに仮面を付け替えていると考えたときに、この本当の自分がはらむ問題として、以下がある。
1.誰とも「本当の自分」でコミュニケーションを図ることができない
2.一方的にこちらが決めて演じるものではなく、あくまで相手との相互作用
3.他社と接している「分人」には実態があるが、「本当の自分」には実態が無い(本当の自分が存在しているかどうか、それを感じる時がない)
【個人と仕事の関係】
個人が注目されてきた理由の一つとして、個性と仕事の関係性を取り上げる。
仮説)個性の尊重は、将来的に個性と仕事を結びつけることを意味している。つまり、自分のしたい仕事をすること事こそが、個性的に生きるということ。
仮に上記を達成しようとした時に、問題となる事実が、「職業が個性に基づいて用意されていない」ことである。例えば、手紙を届けるのが好きで得意な人がいるから、郵便屋さんの仕事ができたのではなく、手紙のやり取りをする必要性から、郵便屋さんの仕事ができている。
誰しも今の自分がやりたいことは何か、今の仕事が本当にやりたいことか悩む場面があり、ここにアイデンティティの苦しみが生じる。その結果、内側にベクトルが向くと引きこもりに繋がったり、外側に向くと自分探しという行為に繋がる。これは真綿で首を絞められるような苦しみである。
【個人の発生】
個人の発生は、キリスト教と言語学や自然科学のような論理学の2つの側面から生み出されたと考えられる。
●キリスト教・・・誰も二人の主人に仕えることはできない。ただ一つの本当の自分で一なる神を信仰しなければならない。
●論理学・・・分けていくことで世界を記述しようとする。
【分人の発生】
自分の個性を尊重されたいと思うと、他人の個性も尊重しなければならない。その場合、本当の自分をゴリ押しできず、その場でコミュニケーション可能な人格をその都度作る。しかし、誰かと会うたび全く新しい自分であることはできない。反復的なコミュニケーションを通じて形成される一種のパターンが人格であると言える。
これらのコミュニケーション上の傾向から、分人の発生プロセスを考える。
1.社会的な分人の形成/エレベーターでの会話をする自分、行きつけのコンビニでの自分
2.グループ向けの分人の形成/学校やコミュニティなどでの振る舞い、キャラ
3.特定の相手に向けた分人の形成/自分の個性を認めてもらったうえで付き合ってほしい特定の人(恋人、親友、親、兄弟など)
【分人で考えなおす】
●誰と付き合っているかで分人構成比は変わる。その個性が個性。
●個性とは生まれつき不変なものではない。
●変化を肯定的にとらえられる。
●好きな分人を足掛かりに人生を肯定的に生きられる。
【自分と他者を見つめなおす】
分人で考えると、すべての自分を構成する分人は他人との相互作用であるから、どんな悩みも半分は他人のせい、ポジティブな結果も半分は他人のおかげさまと捉えられる。
先の大学の友人の飲み会に高校の友達が入り気まずさや中学校の運動会で必死に騎馬戦を戦っている姿を親に見せたくないのは、分人を混ぜたくないと考えている。
私と仕事どっちが大事なのという問いも、仕事の分人と私の分人どちらが大事なのという問いに置き換えられる。
【分人思考で自分を好きになる】
●世界か、自分かどちらかを愛する気持ちがあれば生きていける(小説「決壊」)。●人はなかなか自分を好きだと堂々と言えない。しかし、誰それといる時の自分は好きと言いやすい。
●誰かといる時の自分が好きということは、他者を一度経由している。
●自分を好きになるためには、他者が不可欠であるとうパラドックスこそが分人主義における自己肯定に繋がる大事なポイント。
【愛すること、死ぬこと】
分人主義では、誰かの存在で自分や相手が自身を愛せるようになることが愛と考える。
愛とは一時的なものではなく持続する関係。相互の献身の応酬ではなく相手のおかげで、それぞれが自分自身に感じる特別な居心地の良さではないかと主張する。
分人は、コミュニケーションで少しずつリフレッシュされる。ここから死について考えると、死とはその人との分人が更新されないことを意味する。また、殺人はその人だけではなく、周辺の人たちからさらに周辺の人に広がる無限の分人リンクを破壊する行為である。老いるということは、自分自身の分人を整理していくということ捉えられる。
【個人主義と分人主義まとめ】
個人主義(indivisual)…他者とは明確に区別される。栄光はあなたの手柄。=>分断的
分人主義(divisual)…他社との関係においては不可分である。=>非分断的
個人主義は一個の独立した自分を想起させ、どこかに本当の自分があり、自分の本当にやりたいこと(仕事)を選んで、社会に貢献させる。一方で、他者とのかかわり方が一定でないため、本当の自分を想定したときに偽りの自分を演じている感覚に陥る。また、本当の自分がやりたいことはなんだろうという漠然として真綿で首を絞められるような苦悩を味わう。
分人主義は、本来人間が人と人との間に存在するもので、他者と不可分であるが故に、すべての場面の自分を肯定的に受け入れられる。大きな悩みがあってもそれは、すべて自分の責任ではないという、駆け込み寺のような救いに繋がり、何か成功しても、半分は他人のおかげという感謝の気持ちに繋がる。これ以上分けられない個人主義が生んだ他人との分断を埋め、肯定的に他者との関係の中で生きていく視点の転換になる考えだと思います。
一人 という単位を素数だと思い込まないことが大切。
こんなフレーズが、古き良き時代の歌謡曲にあった。しかし、それは結局どういうことなのか。
さびしいから、孤独だから、という解答では、あまりにも感覚的、短絡的にすぎる。人間はみな支え合って生きているんだよ、といったような「人間という字は……」的な説明も、あまりにも語られ尽くされており、そして幾分説教臭い。
そんな議論の新たな解答になりそうな概念が、本書で平野氏が提唱している「分人主義」だ。
まず「分人」とはなにか。
それは「本当の自分」といえるようなものは存在せず、あるのは生きていくなかで関わるそれぞれの相手に対する「分人」であり、「本当の自分」だと思っている自分は、「分人の集合体」に過ぎない、といった見方だ。家族といるときの自分と、友人といるときの自分が、その話し方や、性格、モノの感じ方のようなものが、必ずしも全く同じでないことを考えればわかりやすいかもしれない。
対象を人間に絞らずとも、「職場にいるときの分人」、「好きな本を読んでいる時の分人」もまたそれぞれ存在する、という見方もできる。「『自分探し』の旅に出る」という表現も、この考え方でいけば「自分のなかの『新たな分人』探し」ということになる。
そういった考え方を日常に取り入れると、少し生きていくのが楽になる、ということなのだ。
「学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまで、いじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習したり、自宅で両親と過ごしたりしている時には、快活で、楽しい自分になれると感じるなら、その分人を足場にして、生きる道を考えるべきである」(94頁)
あるのは「本当の自分」のみという考え方では、自分が「本質的にいじめられる人間」だと考えてしまいがちである。最近話題になったアドラーの解説本でも、「すべての悩みは『人間関係』がもとになっている」といったような説明があったような気がする。
この「自分の好きな分人を足場にして、生きる道を考える」といった提案は画期的な表現だといえるだろう。
もうひとつ重要なのが「分人の構成比率」だ。「分人」を「分数の分子」と考えるとわかりやすい。分母は自分のなかの分人の総数ということになる。
極端な例としてあげられているのが「ストーカー」だ。ストーカーをする側にとっては、相手に対する分人の割合がかなり多いのに、相手にとってのストーカーに対する分人の割合は、その分人の総数に対してかなり小さいと考えることができる。
つまり、「分人のバランスが悪い状態」にあるのだ。そういった観点から、平野氏は「パートナーはよく似た分人のバランスを持っている人が理想的なのかもしれない」(144頁)と述べている。仲のいい友人や同僚がいるとすれば、そういった相手とは分人のバランスが似通っているということなのかもしれない。
「自分の好きな分人を足場にして、生きる道を考える」。そう書いたときにふと考えてしまったのが、近ごろニュースでも大きく取り上げられている、若者の自殺の問題だ。これは身勝手な仮説にすぎないが、学校でのいじめ、職場でのパワハラ、そういった状況に遭遇した自分が「本質的な自分」であると思い込んでしまった時に、こういった悲劇は起こるのかもしれない。
自分のなかの分人が、そういった辛い思いをしている分人で埋め尽くされてしまった状況だ。そうなってしまっては、友達と遊んでいても、家族と一緒にいても、学校での分人、職場での分人の割合が大きすぎるがあまり、絶望的な気持ちで日々を過ごすことになってしまう。その分人が「本質的な自分」としか考えられなくなっていく。
そういった状況に陥ってしまった時に、分人主義の立場に立てば、「環境を変える」という選択肢があるということになるのだろう。しかし、それが容易ではなくなってしまうからこそ悲劇は起こりうる。追い詰められれば追い詰められるほど、自分を客観的に見ることはできなくなるからだ。この「分人」という考え方でどれだけの人を救えるのか。その点に関してはそれぞれの立場からもう一歩踏み込んで考えていく必要があるだろう。
自分という存在は様々な「分人」の総体といえる。楽しいときの自分も苦しいときの自分も、相手や環境との関係のなかで生じた分人が作用しているに過ぎない。誰とも、どんな環境ともかかわりを持たない人間はいないのであり、そういった意味で「ひとはみな ひとりでは生きてゆけない」ということなのだと勝手に解釈させていただいた。
積年の悩みに解決の糸口を見出し泣いてしまいました。
※(平野啓一郎「自己の多様性を生きる」/公益財団法人日仏会館)
私は長年、親と不和の関係にあります。
「親と距離を置きたい」
「それぞれがそれぞれ、楽しく生きていれば良いのに」
そう思えば思うほど、自己嫌悪と親への罪悪感が大きくなっていました。
そこへ来てこの本に出会いました。
個人を対人関係ごとに分割した単位「分人」で親子関係を考えると
私の抱える問題は鮮やかに解決へ向かいました。
個人は、複数の分人の集合体であるため
・自分の全部が親との不和を抱えているわけではない
・親の全部を嫌いなわけではない
・親もまた、子(私)との不和だけで形成されているわけではない
と考えることができます。
文章にするとピンと来ませんが、親に対する私の分人は小さいため
「自分の大部分は親との問題を抱えていない」
と自分の心を整理し、自分を肯定的に捉え直すことができたのです。
これは私にとってコペルニクス的転回とも言える発想でした。
親子関係だけでなく全ての対人関係(対モノ、ペット、概念‥何でも)について
新たな視点を与えてくれると思いますので、悩みのある方にはお勧めします。
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動画は、この本の内容がベースとなった講演で、
後半(1:08:05〜)は質疑応答となっています。
本を読んだ方も、まだ読んでいない方にも興味深い内容かと思いますので
検索してみてください。