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K (講談社文芸文庫) 文庫 – 2017/2/10
三木 卓
(著)
詩人として出発し、小説、児童文学など幅広く活躍してきた著者が、詩への志を同じくする配偶者との出会いから末期癌による辛い闘病生活の末の最期までを愛惜とともに描いた私小説。貧しい暮らしをものともしない生き方、自我のぶつかり合いによって築き上げられた特異な夫婦生活、常軌を逸した子供との結びつき、詩と学問への執着、どこか平静な病気との向き合い方などを通して浮かび上がる「K」の孤高の魂が感動を呼ぶ長篇小説。
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2017/2/10
- 寸法10.8 x 0.9 x 14.8 cm
- ISBN-104062903377
- ISBN-13978-4062903370
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2017/2/10)
- 発売日 : 2017/2/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 272ページ
- ISBN-10 : 4062903377
- ISBN-13 : 978-4062903370
- 寸法 : 10.8 x 0.9 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 557,055位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年7月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まずは本の状態がとても良いので嬉しかったです。文章に引き込まれてあっという間に読み終わってしまいました。
2012年7月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
夫が妻を亡くした後の追憶の本は、たくさんあるのだが、この本は、やや趣が違う。
本ともだちと言う存在がいたら、「この本読んでどう思った?」と聞いてみたくなる本がたまにある。三木卓著「Kケイ」が、そんな一冊だ。
夫婦と言うのは、謎が多いものだが、この夫婦の不可解さも半端ではない。
相性が悪かったという一言で片づけてしまえば簡単なのだが、著者は、そんな単純に言い切りたくはないのである。
なぜ合わなかったのか?それを、小説家ならではの人間観察力で読み説いたのがこの本だと言える。
二人は、詩人という共通項を持つ。しかし、夫は、“結婚とは、日々に深まってくる相手への幻滅に耐え続けることだ”と言い切るほど、溝が深い。根底にあるのは、どうやら育った環境の違いのようだ。
夫は、満州から引揚げていいた母子家庭で育ったが、妻は、八戸の大きな商店で裕福に育った。家には、女中さんもいたから家事などしたことがない。夫は、母親が働いていたので、兄と家事を分担してきたから家事をするのはごく当たり前の日常なのだから、そこからして違う。
もちろん金銭感覚も呆然とするほど違うのだが、何より夫が戸惑ったのは、妻が、「身内とだって同じ部屋で暮らせないのに、結婚なんてできるはずがない」と自分で言ってしまうほどの結婚不適応症だったことだろう。
30代半ばで夫が、小説を書き始めた時、妻はよそに家を借りてきて、なかば強引に夫を家から出してしまう。夫の方も、小説を書くには、その方が都合がいいこともあり、夫婦の別居生活は、妻が手遅れのガンを発病するまで30年ほども続くのだ。
不思議なのは、夫が妻からの拒絶を静かに受け入れてしまうことだ。
これが、男尊女卑の亭主関白の夫だったら、こうはいかない。
夫は、静かに受け入れただけでなく、原稿料は必ず妻に渡すなど、夫として父親としての責任をしっかり果たしているのだ。それにもかかわらず、妻は「あなたには家に帰ってきてほしくないの」などと言うものだから、妻や娘と会うのは、大晦日の夜だけ。この日だけは、妻がたくさん料理を作って紅白歌合戦を見ながら家族3人で過ごすのだ。
妻にとって、夫は異物と言うことなのだろう。アレルギー患者が、異物が体内に入るとアレルギー反応を起こすように、妻は、自分の生活の中に夫が立ち入ってくると、アレルギー反応を起こしてしまうと言うことなのだろうか?
興味深かったのは、乳母(がっか)という存在だ。生まれた後、乳をもらうために里子に出され、離乳が終わったころに生みの親に返すというものらしい。妻は、半農半大工の家に里子に出されたのだが、乳母がなかなか離したがらなかったために、小学校入学前まで乳母の家で育つのだ。他のきょうだいは、1才前後に本家に戻されて子供時代をともに育つわけだから、妻が、屈折した子供時代を過ごしたことが、妻の不可解な性格を作っているようだと、著者は後で思いいたる。
文章はあくまで静かで優しい。末期がんの妻を4年10カ月看病し、そして看取った。
読んだ後に残るのは、著者の寛容な優しさである。
本ともだちと言う存在がいたら、「この本読んでどう思った?」と聞いてみたくなる本がたまにある。三木卓著「Kケイ」が、そんな一冊だ。
夫婦と言うのは、謎が多いものだが、この夫婦の不可解さも半端ではない。
相性が悪かったという一言で片づけてしまえば簡単なのだが、著者は、そんな単純に言い切りたくはないのである。
なぜ合わなかったのか?それを、小説家ならではの人間観察力で読み説いたのがこの本だと言える。
二人は、詩人という共通項を持つ。しかし、夫は、“結婚とは、日々に深まってくる相手への幻滅に耐え続けることだ”と言い切るほど、溝が深い。根底にあるのは、どうやら育った環境の違いのようだ。
夫は、満州から引揚げていいた母子家庭で育ったが、妻は、八戸の大きな商店で裕福に育った。家には、女中さんもいたから家事などしたことがない。夫は、母親が働いていたので、兄と家事を分担してきたから家事をするのはごく当たり前の日常なのだから、そこからして違う。
もちろん金銭感覚も呆然とするほど違うのだが、何より夫が戸惑ったのは、妻が、「身内とだって同じ部屋で暮らせないのに、結婚なんてできるはずがない」と自分で言ってしまうほどの結婚不適応症だったことだろう。
30代半ばで夫が、小説を書き始めた時、妻はよそに家を借りてきて、なかば強引に夫を家から出してしまう。夫の方も、小説を書くには、その方が都合がいいこともあり、夫婦の別居生活は、妻が手遅れのガンを発病するまで30年ほども続くのだ。
不思議なのは、夫が妻からの拒絶を静かに受け入れてしまうことだ。
これが、男尊女卑の亭主関白の夫だったら、こうはいかない。
夫は、静かに受け入れただけでなく、原稿料は必ず妻に渡すなど、夫として父親としての責任をしっかり果たしているのだ。それにもかかわらず、妻は「あなたには家に帰ってきてほしくないの」などと言うものだから、妻や娘と会うのは、大晦日の夜だけ。この日だけは、妻がたくさん料理を作って紅白歌合戦を見ながら家族3人で過ごすのだ。
妻にとって、夫は異物と言うことなのだろう。アレルギー患者が、異物が体内に入るとアレルギー反応を起こすように、妻は、自分の生活の中に夫が立ち入ってくると、アレルギー反応を起こしてしまうと言うことなのだろうか?
興味深かったのは、乳母(がっか)という存在だ。生まれた後、乳をもらうために里子に出され、離乳が終わったころに生みの親に返すというものらしい。妻は、半農半大工の家に里子に出されたのだが、乳母がなかなか離したがらなかったために、小学校入学前まで乳母の家で育つのだ。他のきょうだいは、1才前後に本家に戻されて子供時代をともに育つわけだから、妻が、屈折した子供時代を過ごしたことが、妻の不可解な性格を作っているようだと、著者は後で思いいたる。
文章はあくまで静かで優しい。末期がんの妻を4年10カ月看病し、そして看取った。
読んだ後に残るのは、著者の寛容な優しさである。
2013年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
非常に綺麗な状態で受け取ることができました。商品の発送、梱包も事前にお知らせを頂きました通りでしたので、満足しております。
2012年9月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
誰もがそうであるように,筆者の三木は青春の日々に一人の女性と出会う。やがて妻になるKである。貧しかったが,二人とも若さと怖いもの知らずのエネルギーも確かに持っていた。
Kが三木の安アパートに風呂敷包みの洗面器を持って乗り込んできた当初の,「私は窮鳥なんだからね」という科白は重要だと思う。「窮鳥ふところに入れば猟師も殺さず」ということわざを踏まえたものだが,これ以降三木はKという窮鳥を養う人生を送る事になる。実際Kは身体も弱いし性格的にも狭量で,社会的な適応力を身につけておらず,どこに勤めても長く続かない。誰かに養って貰わないと生きて行けない点でまさに窮鳥だが,この窮鳥はひどくわがままで自分勝手だ。しかしこの窮鳥を守る,という役割を負った事で三木の人生に新たな意味が加わったのだった。
夫婦の間に娘が出来てから二人の関係は徐々に変わってゆく。夫婦は別居してしまい,三木が妻と娘に会うのは一年で年末に一度だけという,普通考えれば冷め切った夫婦関係がはじまる。
しかし,意外にも二人は心の深いところで理解しあっていた。Kの詩作が出版され世に出る事ができたのは夫の尽力が大きかった。しかし,一応妻だから義理で出してやった,というのではない。Kの詩が文学として広く一般に価値あるものとして認められるレベルにあるかどうかは分からない,としながらも,三木はKの詩に故郷喪失者の埋められない心の寂しさが,東北の風土を背景に鋭く表現されているのを読み取っていた。三木は妻の詩の文学的な価値だけでなく,妻の孤独な心の成り立ち,寒々とした心の原風景を読み取って,強く心を動かされたのではなかっただろうか。
自分の病変に気付いた時,Kが真っ先に頼りにしたのは年に一度しか会わない夫だった。Kは癌で,壮絶な闘病を行う事になる。Kの病状が悪化して行ったある日,「Kが……いたましい」と言って三木は号泣するのだ。三木は献身的,と言って良いくらいにKの看病に当たるが,Kから「お礼です」といって示された「T・Mへ」と夫への献辞の付いた詩は,奇妙なことに夫の兄のことを詠んだものだった。しかし,三木はKのへそ曲がりの中にも紛れもない自分への愛を読み取っていた。へそ曲がりのKらしい事だと,微笑みを持ってKを懐かしむのである。
一見荒涼とした別居夫婦の風景。しかしなお,痛ましく,はかなく死んでいった妻の心を,人生の意味を理解できるのは,紛れもなく夫である自分だけなのである。その妻の心が,なおも自分を励ましてくれている。夫婦の不思議な愛の深さとせいせいとした美しさを感じ取れる佳作である。
Kが三木の安アパートに風呂敷包みの洗面器を持って乗り込んできた当初の,「私は窮鳥なんだからね」という科白は重要だと思う。「窮鳥ふところに入れば猟師も殺さず」ということわざを踏まえたものだが,これ以降三木はKという窮鳥を養う人生を送る事になる。実際Kは身体も弱いし性格的にも狭量で,社会的な適応力を身につけておらず,どこに勤めても長く続かない。誰かに養って貰わないと生きて行けない点でまさに窮鳥だが,この窮鳥はひどくわがままで自分勝手だ。しかしこの窮鳥を守る,という役割を負った事で三木の人生に新たな意味が加わったのだった。
夫婦の間に娘が出来てから二人の関係は徐々に変わってゆく。夫婦は別居してしまい,三木が妻と娘に会うのは一年で年末に一度だけという,普通考えれば冷め切った夫婦関係がはじまる。
しかし,意外にも二人は心の深いところで理解しあっていた。Kの詩作が出版され世に出る事ができたのは夫の尽力が大きかった。しかし,一応妻だから義理で出してやった,というのではない。Kの詩が文学として広く一般に価値あるものとして認められるレベルにあるかどうかは分からない,としながらも,三木はKの詩に故郷喪失者の埋められない心の寂しさが,東北の風土を背景に鋭く表現されているのを読み取っていた。三木は妻の詩の文学的な価値だけでなく,妻の孤独な心の成り立ち,寒々とした心の原風景を読み取って,強く心を動かされたのではなかっただろうか。
自分の病変に気付いた時,Kが真っ先に頼りにしたのは年に一度しか会わない夫だった。Kは癌で,壮絶な闘病を行う事になる。Kの病状が悪化して行ったある日,「Kが……いたましい」と言って三木は号泣するのだ。三木は献身的,と言って良いくらいにKの看病に当たるが,Kから「お礼です」といって示された「T・Mへ」と夫への献辞の付いた詩は,奇妙なことに夫の兄のことを詠んだものだった。しかし,三木はKのへそ曲がりの中にも紛れもない自分への愛を読み取っていた。へそ曲がりのKらしい事だと,微笑みを持ってKを懐かしむのである。
一見荒涼とした別居夫婦の風景。しかしなお,痛ましく,はかなく死んでいった妻の心を,人生の意味を理解できるのは,紛れもなく夫である自分だけなのである。その妻の心が,なおも自分を励ましてくれている。夫婦の不思議な愛の深さとせいせいとした美しさを感じ取れる佳作である。
2012年5月31日に日本でレビュー済み
40年以上の長きにわたり連れ添った、妻への鎮魂の書だ。
今まで書くことのなかった夫人について赤裸々に語り、
凄惨な闘病生活について語る。
自らの内面をさらけ出しながらも含羞に満ち、言葉が
美しく紡がれてゆく。
夫人の生い立ち、出会いから結婚、出産。
後には半分別居の生活であったにも拘らず、二人をつなげて
いたものは何だっのか。
読了後にきっと、読者は等しく納得するものがあることだろう。
『…大きな青筋の立っているような大きな乳房から熱い母乳を
容赦なく、ぐいぐいと飲んだのである。乳母は抱いている小さな
生命から、ぐいぐいと母乳を飲まれた。』
いかにも著者らしい、詩人の文章に惹きつけられ一気に読んだ。
本書は「裸足と貝殻」「柴笛と地図」につづく3部作と言えるが、
最秀作となった。
今まで書くことのなかった夫人について赤裸々に語り、
凄惨な闘病生活について語る。
自らの内面をさらけ出しながらも含羞に満ち、言葉が
美しく紡がれてゆく。
夫人の生い立ち、出会いから結婚、出産。
後には半分別居の生活であったにも拘らず、二人をつなげて
いたものは何だっのか。
読了後にきっと、読者は等しく納得するものがあることだろう。
『…大きな青筋の立っているような大きな乳房から熱い母乳を
容赦なく、ぐいぐいと飲んだのである。乳母は抱いている小さな
生命から、ぐいぐいと母乳を飲まれた。』
いかにも著者らしい、詩人の文章に惹きつけられ一気に読んだ。
本書は「裸足と貝殻」「柴笛と地図」につづく3部作と言えるが、
最秀作となった。
2013年1月31日に日本でレビュー済み
「kのことを書く」という一文で始まるこの小説は
三木卓氏の、癌で逝った妻へのmourning work(喪の仕事)である。
そして紛う方なき私小説である。
なぜ妻、女房、うちのかみさん、ではなく、kなのか?
それはこの作品を読了した者なら、それぞれの流儀で納得がいくことだろう。「k」という呼称を採用することによって、本作の軽やかな文体が約束された。
妻の桂子さんは詩人で、生涯にわたり詩を書き続けた。プライドが高く、やりたくないことは頑固にしようとしなかった。夫が小説に没頭し始めると、家から追い立てた。そのうち、娘に悪い影響を与えると言って、夫は自分の家の敷居をまたぐことを禁じられ、正月だけ帰宅を許された。(笑)夫婦が同居していたのは、47年間の結婚生活の間の十数年間である。それでも夫は律儀に家に稼いだお金を入れ続け、子を産んだ妻は働かなかった。
桂子さんは自分が病むと、当然とばかり夫を呼びつけ、夫は身を挺して看病した。7冊の詩集を出版したのも、三木氏の助力あってこそ、死後は全詩集が編まれた。
一つ屋根の下に、言霊はふたついらないのだ。桂子さんは三木氏が本当は一人暮らしに向いていて、執筆のためにもひとりの方がずっといいことを見抜いていたのだろう。そして自分の創作活動のためにも、夫が邪魔だったのだ。二つの言霊にとって、別居生活は理にかなったものだったろう。こういうのは、不幸な結婚生活とはいわない。
最初は妻の機嫌を損なうのが恐ろしくて詩集発行に協力していた(お金を出すのは勿論夫)三木氏が、50代後半になって、妻の詩のことばにふくらみのようなものを感じ、驚くシーンがある。プロの書き手から見て、桂子さんはこのとき、ホンモノの詩人となったのだ。そのときの三木氏の述懐が胸にしみたので、ちょっと長いけれど引用する。
「そしてぼくは、本質的な意味において、kをけなすことはもちろん、安易にはげましたり、同情したりすることもできなくなったと思った。kが孤独だったり,歎いたりしていても、それは彼女が味わうべきことであり、ぼくは彼女が人生において、今在るように感じていることの要素のひとつにすぎないからである。」
ああ、世に多く埋もれている、才あり誇り高く生き難い女たちのひとりひとりに、三木卓氏のごときナイトが現れますように。私はもう手遅れだけど。
三木卓氏の、癌で逝った妻へのmourning work(喪の仕事)である。
そして紛う方なき私小説である。
なぜ妻、女房、うちのかみさん、ではなく、kなのか?
それはこの作品を読了した者なら、それぞれの流儀で納得がいくことだろう。「k」という呼称を採用することによって、本作の軽やかな文体が約束された。
妻の桂子さんは詩人で、生涯にわたり詩を書き続けた。プライドが高く、やりたくないことは頑固にしようとしなかった。夫が小説に没頭し始めると、家から追い立てた。そのうち、娘に悪い影響を与えると言って、夫は自分の家の敷居をまたぐことを禁じられ、正月だけ帰宅を許された。(笑)夫婦が同居していたのは、47年間の結婚生活の間の十数年間である。それでも夫は律儀に家に稼いだお金を入れ続け、子を産んだ妻は働かなかった。
桂子さんは自分が病むと、当然とばかり夫を呼びつけ、夫は身を挺して看病した。7冊の詩集を出版したのも、三木氏の助力あってこそ、死後は全詩集が編まれた。
一つ屋根の下に、言霊はふたついらないのだ。桂子さんは三木氏が本当は一人暮らしに向いていて、執筆のためにもひとりの方がずっといいことを見抜いていたのだろう。そして自分の創作活動のためにも、夫が邪魔だったのだ。二つの言霊にとって、別居生活は理にかなったものだったろう。こういうのは、不幸な結婚生活とはいわない。
最初は妻の機嫌を損なうのが恐ろしくて詩集発行に協力していた(お金を出すのは勿論夫)三木氏が、50代後半になって、妻の詩のことばにふくらみのようなものを感じ、驚くシーンがある。プロの書き手から見て、桂子さんはこのとき、ホンモノの詩人となったのだ。そのときの三木氏の述懐が胸にしみたので、ちょっと長いけれど引用する。
「そしてぼくは、本質的な意味において、kをけなすことはもちろん、安易にはげましたり、同情したりすることもできなくなったと思った。kが孤独だったり,歎いたりしていても、それは彼女が味わうべきことであり、ぼくは彼女が人生において、今在るように感じていることの要素のひとつにすぎないからである。」
ああ、世に多く埋もれている、才あり誇り高く生き難い女たちのひとりひとりに、三木卓氏のごときナイトが現れますように。私はもう手遅れだけど。