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マラッカ海峡物語 ペナン島に見る多民族共生の歴史 (集英社新書) 新書 – 2019/3/15

4.1 5つ星のうち4.1 18個の評価

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ベンガル湾を内海のように抱えるインドと東南アジアには、
どのような文明が形成されてきたのか――。
本書が注目するのは、マラッカ海域北端に浮かぶペナン島。
淡路島の半分ほどの面積しかないこの小島に、
これまで、実に三〇以上の民族集団が、絶妙なバランスで群居し続けてきた。
マレー人、インドネシアの海民アチェやブギス、インドのチェッティ商人、
ムスリム海商チュリア、クリン、アラブの海商ハドラミー、ポルトガル人、
イギリス人、フランス人、アルメニア人、華僑、日本人、等々――。
各地で、ナショナリズムや排外主義的な価値観が増大する中、
本書が提示する世界像は、多民族共存の展望と希望を与えてくれるだろう。
人間は、共存可能だ――と。
ベンガル湾からマラッカ海峡にかけての地域研究の第一人者による、
初の本格的な「マラッカ海峡」史。

◆著者略歴◆
重松伸司(しげまつ しんじ)
一九四二年大阪市生まれ。歴史学者。追手門学院大学名誉教授。
九九年「マレーシアおよびシンガポールにおけるインド移民社会の形成と変容」をテーマに博士号取得(文学)。
著書に『マドラス物語――海道のインド文化誌』(中公新書)など。
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 集英社 (2019/3/15)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2019/3/15
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 304ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4087210715
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087210712
  • 寸法 ‏ : ‎ 10.6 x 1.4 x 17.3 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 18個の評価

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重松 伸司
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海を越えて多様な民族が往来し、争いを繰り返した後、共生する
5 星
海を越えて多様な民族が往来し、争いを繰り返した後、共生する
インド・東南アジアの境界のある「ベンガル湾」「マラッカ海峡」を、古来から多様な民族が往来していたのには、この地域特有のモンスーン気候が影響しています。モンスーンは雨・風・風向き・雲・潮流・気圧などの複合的な自然現象です。通常は年2回、風向きを変えて到来します。マダガスカル近くの海上で発生して、インド洋・インド南部・ベンガル湾・東南アジアへと北上する南西モンスーン(4~9月)と、ヒマラヤ上空に発生し、ネパール・インド北部・東南アジア・ベンガル湾を南下する北東モンスーン(10~3月)です。アラブ・インド・マレー海域・ジャワ海の海の商人たちは、南西モンスーン期の始まる5月に南インドの港を出発して、マラッカ海峡とその東の多島海へ向かい、翌年1月まではマラッカ海峡のペナン、マラッカなどの港に逗留して、北東モンスーンを利用して再びインドへ戻ります。東南アジア諸島と中国の海の商人たちは、北東モンスーンを利用して、スマトラ島、マラッカ海峡へと航海して、12月にマラッカに到着し、翌年の6月まで滞在した後、南西モンスーンを利用して再び、東南アジアの港や中国へ戻ります。ペナンは向かいの陸地クダーのスルタン領でしたが、実態としては「主のない土地」で、1826年に東インド会社がペナン、マラッカ、シンガポールの3地域を、マレーの藩主から割譲させて、実効支配つまり「海峡植民地」が始まりました。それ以前のイギリス東インド会社はアルメニア商人と「1688年協約」を締結して、その関係は200年続きました。内容は2つありました。第1に、17世紀後半からインド・東南アジアへの進出を目論んでいた東インド会社は、17世紀以前からインドの内陸、海港の拠点都市に定住し、交易を行っていたアルメニア商人に対して、現地勢力との仲介・交渉・通訳を依頼すること第2に、東インド会社はアルメニア商人に対して、上の代償として交易ルート・交易品・優遇関税、イギリス領でのアルメニア人の保護など各種の保証を与えること19世紀半ばまでベンガル湾で活躍していた南インドのタミル系の商人たちをマレー語で「クリン」と総称していました。タミル・ヒンドゥーの中でも特に富裕な商人集団を「チェッティ」と呼び、チェッティの基本的な商業形態は、インド・東南アジアの都市・農村地域での高利貸し業、両替、信用状に基づく送金業務などであり、それは初期的な金融機能でした。南インドのコロマンデル沿岸部のタンジョール、ラムナードを拠点とするタミル・ムスリムの商人たちをチェリアと呼びます。ペナン最大のモスクであるカピタン・クリン・モスクは富裕商人チェリアを信者として、彼らはカピタン・クリン(クリンをまとめる行政代行責任者)の社会的影響力と潤沢な寄進によって建立されました。背景として、華人系の会党どうしが錫鉱山利権や徴税権を争って抗争を繰り返していたため、治安のためにマドラスから増派された警官や、兵士、セポイ(インド人傭兵)が送り込まれ、彼らの兵舎がジョージタウンのチェリア通りに置かれました。ペナン総督府によって名目的であれカピタン・チナ(華人をまとめる行政代行責任者)に任じられた大商人は、土地の所有・交易・徴税請負・鉱山開発などの特権を獲得して、華人労働者を掌握し、会党の頭目として同郷・同業・同姓の幇組織を統帥しました。ペナンのブルーマンションを所有していたチョン・ファッィーは代表的な華人の大商人です。
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上位レビュー、対象国: 日本

2023年5月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本に出会えてとにかく幸せです。中国や東南アジアを旅する上で視点が大変豊かになりました。ペナン島に焦点をあて、海の潮の流れと風を読み旅をしてきた人々の人生を想像しながら、歴史や文化が紡がれてきた経緯を物語のように読み進めました。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2020年4月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ペナン島にくらしいるので、歴史を知っておこうと読んでみた。題名から多民族共生の何かドラマチックなものを期待していが、史実に忠実でそういったものはない。ペナン島に住む中国人からは、知的、文化度が高い印象があったが、過去に秘密結社間の抗争があったとのこと。インド人も多く、人によってインドの言葉が通じるが、インドとの繋がり、歴史的背景もわかった。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2019年11月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
インド・東南アジアの境界のある「ベンガル湾」「マラッカ海峡」を、古来から多様な民族が往来していたのには、この地域特有のモンスーン気候が影響しています。

モンスーンは雨・風・風向き・雲・潮流・気圧などの複合的な自然現象です。通常は年2回、風向きを変えて到来します。

マダガスカル近くの海上で発生して、インド洋・インド南部・ベンガル湾・東南アジアへと北上する南西モンスーン(4~9月)と、ヒマラヤ上空に発生し、ネパール・インド北部・東南アジア・ベンガル湾を南下する北東モンスーン(10~3月)です。

アラブ・インド・マレー海域・ジャワ海の海の商人たちは、南西モンスーン期の始まる5月に南インドの港を出発して、マラッカ海峡とその東の多島海へ向かい、翌年1月まではマラッカ海峡のペナン、マラッカなどの港に逗留して、北東モンスーンを利用して再びインドへ戻ります。

東南アジア諸島と中国の海の商人たちは、北東モンスーンを利用して、スマトラ島、マラッカ海峡へと航海して、12月にマラッカに到着し、翌年の6月まで滞在した後、南西モンスーンを利用して再び、東南アジアの港や中国へ戻ります。

ペナンは向かいの陸地クダーのスルタン領でしたが、実態としては「主のない土地」で、1826年に東インド会社がペナン、マラッカ、シンガポールの3地域を、マレーの藩主から割譲させて、実効支配つまり「海峡植民地」が始まりました。

それ以前のイギリス東インド会社はアルメニア商人と「1688年協約」を締結して、その関係は200年続きました。内容は2つありました。

第1に、17世紀後半からインド・東南アジアへの進出を目論んでいた東インド会社は、17世紀以前からインドの内陸、海港の拠点都市に定住し、交易を行っていたアルメニア商人に対して、現地勢力との仲介・交渉・通訳を依頼すること

第2に、東インド会社はアルメニア商人に対して、上の代償として交易ルート・交易品・優遇関税、イギリス領でのアルメニア人の保護など各種の保証を与えること
19世紀半ばまでベンガル湾で活躍していた南インドのタミル系の商人たちをマレー語で「クリン」と総称していました。

タミル・ヒンドゥーの中でも特に富裕な商人集団を「チェッティ」と呼び、チェッティの基本的な商業形態は、インド・東南アジアの都市・農村地域での高利貸し業、両替、信用状に基づく送金業務などであり、それは初期的な金融機能でした。

南インドのコロマンデル沿岸部のタンジョール、ラムナードを拠点とするタミル・ムスリムの商人たちをチェリアと呼びます。

ペナン最大のモスクであるカピタン・クリン・モスクは富裕商人チェリアを信者として、彼らはカピタン・クリン(クリンをまとめる行政代行責任者)の社会的影響力と潤沢な寄進によって建立されました。

背景として、華人系の会党どうしが錫鉱山利権や徴税権を争って抗争を繰り返していたため、治安のためにマドラスから増派された警官や、兵士、セポイ(インド人傭兵)が送り込まれ、彼らの兵舎がジョージタウンのチェリア通りに置かれました。

ペナン総督府によって名目的であれカピタン・チナ(華人をまとめる行政代行責任者)に任じられた大商人は、土地の所有・交易・徴税請負・鉱山開発などの特権を獲得して、華人労働者を掌握し、会党の頭目として同郷・同業・同姓の幇組織を統帥しました。

ペナンのブルーマンションを所有していたチョン・ファッィーは代表的な華人の大商人です。
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5つ星のうち5.0 海を越えて多様な民族が往来し、争いを繰り返した後、共生する
2019年11月8日に日本でレビュー済み
インド・東南アジアの境界のある「ベンガル湾」「マラッカ海峡」を、古来から多様な民族が往来していたのには、この地域特有のモンスーン気候が影響しています。

モンスーンは雨・風・風向き・雲・潮流・気圧などの複合的な自然現象です。通常は年2回、風向きを変えて到来します。

マダガスカル近くの海上で発生して、インド洋・インド南部・ベンガル湾・東南アジアへと北上する南西モンスーン(4~9月)と、ヒマラヤ上空に発生し、ネパール・インド北部・東南アジア・ベンガル湾を南下する北東モンスーン(10~3月)です。

アラブ・インド・マレー海域・ジャワ海の海の商人たちは、南西モンスーン期の始まる5月に南インドの港を出発して、マラッカ海峡とその東の多島海へ向かい、翌年1月まではマラッカ海峡のペナン、マラッカなどの港に逗留して、北東モンスーンを利用して再びインドへ戻ります。

東南アジア諸島と中国の海の商人たちは、北東モンスーンを利用して、スマトラ島、マラッカ海峡へと航海して、12月にマラッカに到着し、翌年の6月まで滞在した後、南西モンスーンを利用して再び、東南アジアの港や中国へ戻ります。

ペナンは向かいの陸地クダーのスルタン領でしたが、実態としては「主のない土地」で、1826年に東インド会社がペナン、マラッカ、シンガポールの3地域を、マレーの藩主から割譲させて、実効支配つまり「海峡植民地」が始まりました。

それ以前のイギリス東インド会社はアルメニア商人と「1688年協約」を締結して、その関係は200年続きました。内容は2つありました。

第1に、17世紀後半からインド・東南アジアへの進出を目論んでいた東インド会社は、17世紀以前からインドの内陸、海港の拠点都市に定住し、交易を行っていたアルメニア商人に対して、現地勢力との仲介・交渉・通訳を依頼すること

第2に、東インド会社はアルメニア商人に対して、上の代償として交易ルート・交易品・優遇関税、イギリス領でのアルメニア人の保護など各種の保証を与えること
19世紀半ばまでベンガル湾で活躍していた南インドのタミル系の商人たちをマレー語で「クリン」と総称していました。

タミル・ヒンドゥーの中でも特に富裕な商人集団を「チェッティ」と呼び、チェッティの基本的な商業形態は、インド・東南アジアの都市・農村地域での高利貸し業、両替、信用状に基づく送金業務などであり、それは初期的な金融機能でした。

南インドのコロマンデル沿岸部のタンジョール、ラムナードを拠点とするタミル・ムスリムの商人たちをチェリアと呼びます。

ペナン最大のモスクであるカピタン・クリン・モスクは富裕商人チェリアを信者として、彼らはカピタン・クリン(クリンをまとめる行政代行責任者)の社会的影響力と潤沢な寄進によって建立されました。

背景として、華人系の会党どうしが錫鉱山利権や徴税権を争って抗争を繰り返していたため、治安のためにマドラスから増派された警官や、兵士、セポイ(インド人傭兵)が送り込まれ、彼らの兵舎がジョージタウンのチェリア通りに置かれました。

ペナン総督府によって名目的であれカピタン・チナ(華人をまとめる行政代行責任者)に任じられた大商人は、土地の所有・交易・徴税請負・鉱山開発などの特権を獲得して、華人労働者を掌握し、会党の頭目として同郷・同業・同姓の幇組織を統帥しました。

ペナンのブルーマンションを所有していたチョン・ファッィーは代表的な華人の大商人です。
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2019年4月2日に日本でレビュー済み
本書は南インドからマレー半島に至る海域の姿を南アジア史・東南アジア史の立場からペナン島という交易拠点から鳥瞰した良書である。序説にあるようにもとは大学の講義用教科書として書かれたということだが,むしろマレーシアのペナン州に進出している日本企業や旅行者の需要が多かったと書かれている。扱っている時代は18世紀末のペナンの英国東インド会社のクダーからの租借から20世紀初頭に至る。すなわち,英領の植民地である海峡植民地としてのペナンの姿である。英国海峡植民地はペナン(1786年獲得)とシンガポール(1819年獲得)が港市拠点として著名であるが,1つの特徴として,英国東インド会社官吏が,交易拠点として華人,インド系,アラブ系,スマトラやクダーからのマレー系ムスリム商人などを招き,町を作り上げていったという人工性を持つ。したがって副題としての「ペナン島にみる多民族共生の歴史」は民族と言語と宗教が異なる人々がいかにして,この交易拠点を衝突することなく英国統治のもとで商業活動に励んだかという歴史と口伝調査による分析である。
 マレーシアでの海外駐在者や旅行者,ペナン島に長期滞在で余生をおくる予定のシニア層などにお勧めである。
 この本の参考文献は丁寧であり,なお,日本語論文と英文論文,一部華語史料を用いており,マレーシアの中で華人の比率の高いペナンの状況を反映している。
 とはいえ,序説の中で重松氏の19世紀以降のペナンを含む「本書が対象とするマラッカ海峡の北部,アンダマン海,ベンガル湾に及ぶ海域世界についてはほとんど研究が無かった」という表現は誤りである。「ほとんど研究がなかった」のは日本においてのみであり,マレーシアで発表されている膨大なマレー語の研究論文,研究書が抜け落ちている。また,ペナンに関しては英国東インド会社の同時代史料がマレーシアにおいても容易に入手できるために,19世紀以降のペナンの状況についてはかなり英文を主とする研究としてはでつくした感がある。特にペナン租借を申し出た英国東インド会社が,ペナン島の所有者であるクダー国(現クダー州,プルリス州,タイのサトゥーン県)のスルタンとの交渉を行っていたと同時に,クダースルタンの側では、15世紀に遡ることができるシャムとの朝貢関係において、アユタヤ朝崩壊時(1767)に途絶えていた、シャム(タイ)への朝貢の再開の要求が,同年1786年に起こったため,ペナンを年金で借り受けたい英国側と,シャムからの軍事的圧力から保護を求めるクダーのスルタンの思惑とが絡み合い、なし崩しにクダーは英国東インド会社からの年金を受け取りつつ、シャムのラタナコーシン朝への朝貢を承諾した。そして結果的にクダーはシャムによる奇襲攻撃と占領によって、1821-1842年の間、シャムの仏教徒支配者のもとにおかれた。この事件は歴史的なクダーの苦難の記憶として語り継がれているが、対岸にシャム勢力を抱えることになったペナンにとっても他人事ではなかった。この事件にについて,ほぼ触れられていないのは残念である。シャムによるクダーの占領期には,ペナン領に大量のクダーからの難民が押し寄せ,またペナンの商人のムスリムも華人もクダーをシャムから奪還するための秘密組織の支援を行っていた。
 これらの事件については日本では信夫清三郎の『ラッフルズ伝』が最初の研究書であり,やはり英国東インド会社文書を典拠としている。そのため、東インド会社の視点からの分析にならざるを得ないのは本書でも見られる。
 東インド会社文書を典拠とする研究論文,研究書はマレー語論文,タイ語論文や資料を含めると19世紀に関してはかなりのものが存在する。マレー語の歴史史料,タイ語の歴史資料にはそれぞれ異なった視線からの描写が見られる。
 ペナン側(英国側)の立場としては、シャムによるクダー占領期に英国がペナンの保安に危惧を抱いてシャムへ交渉を開始するが(1822年クローファード,1826年バーネイ),シャム中央宮廷との条約(バーネイ条約)では、反シャム戦争が起こった1830-1839年)場合,シャムとの条約によってペナンの英国東インド会社はクダーやペナンのムスリムを海賊として逮捕しなければならないことが明記されていた。クダースルタンがペナン島に避難していたこともあり、ペナン政庁はその対応に苦慮した。その状況をシャムがどのように認識し,ペナン島をどうみていたか、反シャム反乱の多発にどう対処していたかのタイ語史料や研究書などの成果が反映されていないのである。
 ペナン島の「多民族共生社会」は決して穏やかに成立したものではなかった。19世紀を通してクダーはシャムの朝貢国であり,ペナンはまたマレー半島の他のイスラーム侯国とシャムの衝突を避けて軍艦を出動させねばならなかったし,錫などの取引のほか、地域のアヘンの供給地としても繁栄していたのである。
 では,なぜ,本来南アジア史を主たる専門とする重松氏がこのような本を上梓するに至ったかといえば,東南アジア史,マレー半島史の専門家の怠慢ともいえるかもしれない。筆者もマレー半島史を専門とする研究者であり,東南アジア史を大学で講義する立場にあるが,英文資料や論文,マレー語,タイ語による研究者の論文などが多数存在し,しかも,ネットで自由に閲覧できることから,日本語での講義用図書,転じて今回の一般書として書くことには思い至らなかった。アンソニー・リードの「Age of Commerce」の翻訳を日本史研究者がしなければならなかったように,東南アジア史研究者は英文で読めてしまうものは翻訳せずに終わっていることは反省するべきであろう。
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2020年3月28日に日本でレビュー済み
ペナンと伝説のロックグループ・クィーンのリードボーカリストの故フレディ・マーキュリー、一見関係なさそうで、実は深い関係にあります。本書を読んでそう感じました。

ペナンはマレー半島に寄り添うようにある小さな島ですが、その地理的位置はたいへん重要です。それはマラッカ海峡が、東アフリカ沿岸、アラビア半島、インド西岸、ベンガル湾、マラッカ海峡にまたがる環インド洋航路は、ダウ船での海流・貿易風を利用した航海でアラビア人、ペルシャ人、インド人などによって古い時代から拓かれた環インド洋航路と、東南アジア島嶼部・中華大陸南岸の海洋民による、南シナ海・東シナ海を経由し東南アジアから東アジアに至る既存の航路とが会合する位置であるからです。それによって、東アフリカ、アラビア、ペルシャ、インド、マレー、インドシナ、中国と続く交易ルートが出来上がっていました。ここに1489年、ポルトガル人バスコ・ダ・ガマは大西洋からアフリカ南端の喜望峰を越えると、ついにはヨーロッパ・アジア間の海の交易路が完成し、大航海時代の幕開けとなりました。その戦略的な位置に目を付けた東インド会社のイギリスは 1786年ペナンを獲得し、居留区が設けます。
以上の経緯から、ペナン島という小島にはヨーロッパから東アジアへ至る航路にかかわるすべての民族が寄せ集めら、それらが交わりまた反目しながらも「多民族共生」の世界(Micro Cosmos)が作られたことを著者は述べます。

さて、そのような喜望峰周りのヨーロッパ~アフリカ東岸~アラビア半島~インド~マラッカ海峡~東アジアの航路の寄港地のひとつとして、アフリカ大陸に寄り添うように存在する旧英領ザンジバル島(現タンザニア連合国領)があります。ザンジバル島の歴史と文化はペナン島のそれとたいへんよく似たものがあります。昨年話題となった映画『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公・クイーンの故フレディ・マーキュリーは、東アフリカのザンジバルの生まれで、ペルシャとインドの血を引き、インドで育ち、イギリスに移住するというまさに最終的にイギリスが支配したこの航路を象徴する人物でした。彼のエキゾチックな風貌とミステリアスなライフスタイル、そしてエキセントリックなステージパフォーマンスとあふれる才能は、この航路が培った「多文化共生」の象徴なのかもしれません。マーキュリーがペナンに住んでいたという記録はないようですが、彼に似た出自の人物がペナンにもいたことは間違いないでしょう。
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5つ星のうち5.0 ペナンとフレディ・マーキュリー
2020年3月28日に日本でレビュー済み
ペナンと伝説のロックグループ・クィーンのリードボーカリストの故フレディ・マーキュリー、一見関係なさそうで、実は深い関係にあります。本書を読んでそう感じました。

ペナンはマレー半島に寄り添うようにある小さな島ですが、その地理的位置はたいへん重要です。それはマラッカ海峡が、東アフリカ沿岸、アラビア半島、インド西岸、ベンガル湾、マラッカ海峡にまたがる環インド洋航路は、ダウ船での海流・貿易風を利用した航海でアラビア人、ペルシャ人、インド人などによって古い時代から拓かれた環インド洋航路と、東南アジア島嶼部・中華大陸南岸の海洋民による、南シナ海・東シナ海を経由し東南アジアから東アジアに至る既存の航路とが会合する位置であるからです。それによって、東アフリカ、アラビア、ペルシャ、インド、マレー、インドシナ、中国と続く交易ルートが出来上がっていました。ここに1489年、ポルトガル人バスコ・ダ・ガマは大西洋からアフリカ南端の喜望峰を越えると、ついにはヨーロッパ・アジア間の海の交易路が完成し、大航海時代の幕開けとなりました。その戦略的な位置に目を付けた東インド会社のイギリスは 1786年ペナンを獲得し、居留区が設けます。
以上の経緯から、ペナン島という小島にはヨーロッパから東アジアへ至る航路にかかわるすべての民族が寄せ集めら、それらが交わりまた反目しながらも「多民族共生」の世界(Micro Cosmos)が作られたことを著者は述べます。

さて、そのような喜望峰周りのヨーロッパ~アフリカ東岸~アラビア半島~インド~マラッカ海峡~東アジアの航路の寄港地のひとつとして、アフリカ大陸に寄り添うように存在する旧英領ザンジバル島(現タンザニア連合国領)があります。ザンジバル島の歴史と文化はペナン島のそれとたいへんよく似たものがあります。昨年話題となった映画『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公・クイーンの故フレディ・マーキュリーは、東アフリカのザンジバルの生まれで、ペルシャとインドの血を引き、インドで育ち、イギリスに移住するというまさに最終的にイギリスが支配したこの航路を象徴する人物でした。彼のエキゾチックな風貌とミステリアスなライフスタイル、そしてエキセントリックなステージパフォーマンスとあふれる才能は、この航路が培った「多文化共生」の象徴なのかもしれません。マーキュリーがペナンに住んでいたという記録はないようですが、彼に似た出自の人物がペナンにもいたことは間違いないでしょう。
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2019年6月10日に日本でレビュー済み
一般書にはあまり載っていない興味深い話が満載です。ただ、新書というジャンルを考慮して、もう少し噛み砕いた記述であればよかったと思います。そして、わかりやすい地図もあれば。。。カッコや鍵カッコが多すぎて読みづらい。参考文献も文中では、1)2)とかの表記にして巻末にまとめてもらうほうがいいと思いました。
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