安楽死先進国のオランダの歴史と現在が非常にわかりやすくまとまっている。
書かれて時間がたっていることもあり、ここから更に法律も進んだが、そこはぜひネットで調べてみてほしい。
安楽死がなぜオランダでは一般化し、なぜ日本ではその議論は半世紀も遅れているのか?
オランダにある世論のその考え方のベースは何か?どんな事件が起こり、法律が成立されるまでに至ったのか?が非常にわかりやすく読みやすい内容でした。
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安楽死のできる国 (新潮新書 25) 新書 – 2003/7/20
三井 美奈
(著)
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- 本の長さ189ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2003/7/20
- ISBN-104106100258
- ISBN-13978-4106100253
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出版社より
安楽死のできる国 | イスラエル―ユダヤパワーの源泉― | イスラム化するヨーロッパ | |
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カスタマーレビュー |
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価格 | ¥748¥748 | ¥770¥770 | ¥713¥713 |
【新潮新書】三井美奈 作品 | 永遠に続く苦痛より、尊厳ある安らかな死を。末期患者に希望を与える選択肢は、日本でも合法化されるのか。先進国オランダに見える「最期の自由」の姿。 | 人口わずか七五〇万の小国は、いきにしてアメリカを動かすに至ったか。取材で迫ったユダヤ国家の素顔と、そのおそるべき危機管理能力、国防意識、外交術。 | 押し寄せる難民、相次ぐテロ事件、増え続ける移民、過激派に共鳴する若者、台頭する民族主義。欧州が直面する「文明の衝突」から世界の明日を読み解く! |
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2003/7/20)
- 発売日 : 2003/7/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 189ページ
- ISBN-10 : 4106100258
- ISBN-13 : 978-4106100253
- Amazon 売れ筋ランキング: - 91,861位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年11月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
オランダの安楽死の取り組みが良く理解できた。続版として現状のオランダと現状の日本の対応を書いて欲しい。
2014年5月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
オランダでの取材はこんなものでしょう。スイスについても触れられているので、ディグニタスについても書いてもらいたいところです。日本では太田典礼氏についての記述は、中立的なところが評価できる。死については医療に偏した見方でなくて、社会的に死を受け入れる哲学を持たないといけない。今の日本にはそれがない。
2023年3月27日に日本でレビュー済み
【1】
死について書くと、どうしてもジメジメした本になる。
お坊さんであれ、お医者さんであれ、葬儀業者であれ、ファイナンシャル・プランナーであれである。
そりゃ、そうだ。
この問題(家族または自分の死)は、出来るだけ先延ばしにしたい。見て見ぬフリしたい。出来れば、逃げ出したい。それが人情だ。
でも、誰にでも来る。必ず来る。
遠くの国で起きた戦争や難民問題なら、「オレには関係ない」で逃げ切れるが、死に神が発射する遠距離ミサイルは百発百中だ。
おおよその時期が予測できる死もあるが、抜き打ちで来る場合もある。
どっちにせよ、防災対策みたいに「いつ被災しても良いよう、準備に万全を期す」と言う訳には行かない。
いつ来られても、「ちょっと、今は困るよ」なのだ。
膨大な手間ヒマをかけて、念入りに「終活」していたとしてもだ。
みんな未練を残して死ぬのだ。
一番エエカッコシイで「洗練された」未練の表現が「誰にも迷惑をかけたくない」だ。
じゃあ、自分で墓穴掘ってから死ぬの?
「あとは野となれ、山となれ」、
「わが亡きあとに洪水よ来たれ」、
そうやってケツをまくる以上の責任は、取りようがないのではなかろうか、いざ死ぬとなると。
【2】
私はグチの公開討論会を開きたい訳ではない。
本書『安楽死のできる国』に話をもどす。
この本、実にカラッとしている。
余計な感傷は筆にしない。
著者の私見も(よくよくの事でない限り)口にしない。口を挟まない。
「読者に有益で分かりやすい情報を提供する事」に100%集中している。
著者は、清々しいほどプロ意識の高いジャーナリストだと思う。
プロとは「自分がやるべき事をきちんとやり、結果も出す」人の事である。
その見本みたいな本だ。読んで得した。
書評としては、これで十分だろう。星五つ。
後は若干のメモを記す。
【3】
本書の刊行は2003年。20年前だ。新書の賞味期限としてはギリギリだろう。
それは巻末の新刊広告を見れば分かる。
『アメリカの論理』吉崎達彦
『時価会計不況』田中弘
『政党崩壊(副題)永田町の失われた十年』伊藤惇夫
上記3冊とも2003年刊行だ。それなりに話題になった本ばかりだが、今日では、箸を付けるのが躊躇われる。
その点、本書『安楽死のできる国』は大丈夫だ。まだ使える。まだ食える。
もっとも、これは、こと安楽死に限っては、日本は「失われた20年」だった。何も進展が無かったからでもあるが。
【4】
「医療にも貧富の差があるアメリカで、安楽死解禁はNG」、
「家族の介護負担が大きい日本でも、安楽死解禁はNG」と言う指摘は重かった。(本書、62ページ)
そういう国で安楽死を解禁すれば「姥捨て山」になるのは目に見えているからだ。
結局、安楽死の社会的受容と、高福祉社会への転換はワンセットだと言う事になる。オランダが、その良い見本なのだ。
なるほど、日本で安楽死に関する議論が進展しないはずである。
【5】
「どの国でも安楽死は、かくれてやっていることだろう。僕たちは、それを隠さないだけだ」と、自国の安楽死法制を評したオランダ人がいる。(本書、119-120ページ)
この発言の背後には、オランダの歴史および文化的特性がある。
著者による解説は簡潔かつ興味深かった。詳しくは本書・第九章に当たられたい。
死について書くと、どうしてもジメジメした本になる。
お坊さんであれ、お医者さんであれ、葬儀業者であれ、ファイナンシャル・プランナーであれである。
そりゃ、そうだ。
この問題(家族または自分の死)は、出来るだけ先延ばしにしたい。見て見ぬフリしたい。出来れば、逃げ出したい。それが人情だ。
でも、誰にでも来る。必ず来る。
遠くの国で起きた戦争や難民問題なら、「オレには関係ない」で逃げ切れるが、死に神が発射する遠距離ミサイルは百発百中だ。
おおよその時期が予測できる死もあるが、抜き打ちで来る場合もある。
どっちにせよ、防災対策みたいに「いつ被災しても良いよう、準備に万全を期す」と言う訳には行かない。
いつ来られても、「ちょっと、今は困るよ」なのだ。
膨大な手間ヒマをかけて、念入りに「終活」していたとしてもだ。
みんな未練を残して死ぬのだ。
一番エエカッコシイで「洗練された」未練の表現が「誰にも迷惑をかけたくない」だ。
じゃあ、自分で墓穴掘ってから死ぬの?
「あとは野となれ、山となれ」、
「わが亡きあとに洪水よ来たれ」、
そうやってケツをまくる以上の責任は、取りようがないのではなかろうか、いざ死ぬとなると。
【2】
私はグチの公開討論会を開きたい訳ではない。
本書『安楽死のできる国』に話をもどす。
この本、実にカラッとしている。
余計な感傷は筆にしない。
著者の私見も(よくよくの事でない限り)口にしない。口を挟まない。
「読者に有益で分かりやすい情報を提供する事」に100%集中している。
著者は、清々しいほどプロ意識の高いジャーナリストだと思う。
プロとは「自分がやるべき事をきちんとやり、結果も出す」人の事である。
その見本みたいな本だ。読んで得した。
書評としては、これで十分だろう。星五つ。
後は若干のメモを記す。
【3】
本書の刊行は2003年。20年前だ。新書の賞味期限としてはギリギリだろう。
それは巻末の新刊広告を見れば分かる。
『アメリカの論理』吉崎達彦
『時価会計不況』田中弘
『政党崩壊(副題)永田町の失われた十年』伊藤惇夫
上記3冊とも2003年刊行だ。それなりに話題になった本ばかりだが、今日では、箸を付けるのが躊躇われる。
その点、本書『安楽死のできる国』は大丈夫だ。まだ使える。まだ食える。
もっとも、これは、こと安楽死に限っては、日本は「失われた20年」だった。何も進展が無かったからでもあるが。
【4】
「医療にも貧富の差があるアメリカで、安楽死解禁はNG」、
「家族の介護負担が大きい日本でも、安楽死解禁はNG」と言う指摘は重かった。(本書、62ページ)
そういう国で安楽死を解禁すれば「姥捨て山」になるのは目に見えているからだ。
結局、安楽死の社会的受容と、高福祉社会への転換はワンセットだと言う事になる。オランダが、その良い見本なのだ。
なるほど、日本で安楽死に関する議論が進展しないはずである。
【5】
「どの国でも安楽死は、かくれてやっていることだろう。僕たちは、それを隠さないだけだ」と、自国の安楽死法制を評したオランダ人がいる。(本書、119-120ページ)
この発言の背後には、オランダの歴史および文化的特性がある。
著者による解説は簡潔かつ興味深かった。詳しくは本書・第九章に当たられたい。
2017年7月23日に日本でレビュー済み
「苦しまずに死にたい」「寝たきりのまま何年も生き永らえるくらいなら、いっそ死んでしまいたい」と思う人は多いだろう。私もその1人である。年をとって病気になり、家族に迷惑をかけながら社会に何も役に立てなくなってまで、無理して延命してもらいたいとは思わない。2015年における日本人の平均寿命は、男性が80.75歳、女性が86.99歳であり、日本は20年以上長寿世界一の座を守り続けている。医療の進歩でますます「なかなか死ねない」時代になっただけに、「どう死ぬか」を考えることの重要性は増している。
以前安楽死・尊厳死について学んだ際、日本でそれらの定義、法の規定や一貫した診断基準を明確に定めるのは実質的に非常に難しいということであった。しかし、海外には安楽死を合法としている国もあり、そういった国ではいったいどのように法制化を実現したのか、日本とどのような点で違うのか、日本は彼らから何か学べることはないのだろうか―このような疑問をもち、見つけたのが本書である。本書では、安楽死合法化を30年でやり遂げたオランダの実例を通じて、日本での安楽死の是非を改めて考え、さらには、人間の「よき死」とはいったい何なのか、という根本の疑問に対する答えを探っていく。
(本文要約)
オランダには、人々が「どう死にたいか」を示すための携帯用リビング・ウィルとして、自発的安楽死協会(NVVE)の発行する「安楽死パスポート」と、安楽死法制化に反対するオランダ患者協会の発行する「生命のパスポート」がある。前者は、長時間昏睡状態に陥った場合、医師に安楽死させてほしいと意思表示するためのカードであり、後者は逆に、そのような場合でも絶対に安楽死は嫌だと意思表示するためのカードである。安楽死パスポートの発行部数は20万枚、対して生命のパスポートの発行部数はその約100分の1に過ぎない。世論調査(2001年時点)でも85%が安楽死に肯定的であり、およそ4人に1人が周囲で安楽死を見聞きしたことがあるという結果が、オランダ社会での安楽死の浸透を物語っている。人口約1700万、東京都と横浜市を合わせたほどの規模の小国で、年間死者数の2~3%にあたる人々が積極的安楽死をしているのだ。
オランダの安楽死合法化運動の発端となったのは、1971年の「ポストマ事件」である。脳溢血のため半身マヒ状態にあった78歳の母親に請われ、断りきれなくなったポストマ女医が彼女にモルヒネを注射して安楽死させ、嘱託殺人で起訴されたこの事件は、予想に反して安楽死の是非を問う国民議論へと発展した。判決は、患者の死期を早めても苦痛をとるための鎮痛剤投与は、不治の病、耐え難い苦痛があり、患者が死を希望していて医師が他の医師と相談のうえで実施する、という4要件の下で容認されるという立場を示した。NVVEもこの時、女医を支持した患者グループや法律家、医師らを中心に設立された。
安楽死合法化の推進力となったのは、66年に結成された中道左派の新党「民主66」である。安楽死を「個人の自決権」ととらえる医師や弁護士が参加し、それまで法廷が舞台だった安楽死問題を政治や国会の場で取り上げる担い手となっていった。壁となったのは安楽死に否定的なキリスト教系政党であり、この政党をどう動かすかが焦点になった。
84年には、95歳の女性患者を安楽死させた事件に対して、王立医師会が「終末期」の条件を外し患者の自決権に比重を置く新たな要件を示したことにより、安楽死容認の道が大きく拓かれた。民主66の政権参加により国家安楽死委員会が設立し、その後押しを受けながら、刑法を改正して安楽死を合法化する法案が国会に提出された。司法省は翌年、当要件を満たす安楽死については、医師を不起訴とする方針を正式に発表した。
安楽死パスポートの普及・社会的定着が進む中で、90年、政府は医師会と協力し安楽死届け出制度を開始。医師が安楽死を行った後約20の質問に答える報告書を提出する仕組みによって、安楽死の実体を透明化し、安易な実施に歯止めをかける狙いだった。また、元来病院以外の場所で人が「変死」した場合に、医師が死亡証明を出し、自治体の検視官が異常なしと認めたうえで埋葬許可が下りる手続きを定めた遺体埋葬法を、安楽死にも適用するように改定し、94年に発効。安楽死容認の法的枠組みがようやく実現した。
同年6月、体は健康であったものの、うつ状態にあり自殺未遂を繰り返していた50歳の女性を安楽死させた事件に対して刑罰を科さなかった判決は、安楽死の前提条件を精神的苦痛にまで拡大した。これは同時に、肉体的な病気を抱えていなくても、「人生からの離脱」の手段として安楽死ができるという概念が生まれたことを意味した。
その後、キリスト教政党は総選挙で大敗。労働・自民・民主66の連立3党は、世論の支持を受ける形で安楽死容認の刑法改定を定めた連立協定に合意し、99年、ついに安楽死法案が国会に提出された。
そして、2001年4月1日、世界初の安楽死法案は可決された。当法が対象とする安楽死は積極的安楽死と自殺幇助の2つ。(間接的安楽死はオランダでは単なる医療行為であり安楽死とはみなされない。延命治療の停止も同様)それぞれの刑法に、医師が要件を満たして行い、遺体埋葬法の規定に従って届け出をした場合、犯罪とはならないという項目が付け加えられた。刑法改正によって、要件を満たす安楽死を行った医師は「容疑者」扱いを免れ、要件違反があった場合に限り送検される制度に改まった。その要件とは、①患者の安楽死要請は自発的で熟慮されていた ②患者の苦痛は耐えがたく治療の見込みがない ③医師は病状や見込みについて十分に情報を与えた ④医師と患者がともに、他に妥当な解決策がないという結論に達した ⑤医師は少なくとも1人の別の医師と相談し、その医師が患者と面談し要件を満たしているという意見を示した ⑥医師は十分な医療上の配慮を行い絶命させた である。
患者を安楽死させた医師は、自治体の検視官に安楽死についての報告書を提出する義務がある(上記改定遺体埋葬法)。届け出を受けた検視官は、国内5か所に設置された「安楽死地域評価委員会」の一つに報告する。委員会は、報告を受けてから6週間以内に医師の行動が要件を着実に満たしているか審査し、違反があったと認定した場合に限って送検し、検察が刑事捜査に入る。さらに委員会は毎年、安楽死届け出状況を統計として発表する。
本書は、安楽死の制度化には社会に4つの条件が必要であるとして、①誰もが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度 ②腐敗がなく信頼度の高い医療 ③個人主義の徹底 ④教育の普及 をあげている。③は言うまでもなく、安楽死という自分の生死に関する最重要の問題に自身が向き合い、主体的判断を下せるか否かを指す。④は、一定の医学知識とともに、医師と向き合い、その言葉を正しく冷静に理解する患者の能力のことである。①や②に関しては、特にオランダでは、特別医療保険により高齢者の自立(1人暮らし)が可能であることや、寝たきりになっても年金で老後を賄えるしくみ、各地域のかかりつけ医の存在によるところが大きい。
合法化を果たしたオランダも依然、安楽死をめぐって様々な葛藤を抱えている。その一つは、生命を救う立場である医師が頻繁に死を求められる心理的苦痛である。これに対しては、彼らのさまざまな悩みに応じるため、王立医師会による安楽死ホットライン(安楽死に詳しい知識・経験を持つ医師が地域医の安楽死相談に応じるシステム)が設けられている。
どこまで死の権利を認めるべきか、という問題も重大である。未成年の安楽死については、安楽死法では16歳以上の未成年にも自決権を与え、当初12歳以上の子供に親の同意なしに安楽死要請の権利を認めていたが、その後12歳以上16歳未満の子供については保護者の同意がある場合に限り安楽死を認めると改正した。国内では、未成年と成人との間に権利格差を設けるべきではないという見方が強い。また、認知症を苦にする患者の安楽死は認められるかという問題も深刻さを増している。医療現場では審議の前から認知症を苦にする患者への安楽死は行われていたものの、政府は肯定的立場をとっているが医師の多くは否定的であり、国民的コンセンサスには至っていない。自分で意思表明のできない赤ちゃんの安楽死は可能なのかという問題も非常に難しい。
最後に日本とオランダの安楽死に関する医療現場の違いとして、横浜地裁判決を例にとり、日本はあくまで、積極的安楽死を肉体的苦痛を抱える終末患者に限定しており、安楽死の具体的な方法については言及していないとする。かつて問題となった京北病院事件、川崎協同病院事件においても、患者の安楽死の意思表明がない状態で、安楽死要件である「患者の自己決定権」を無視して致死薬を投与したことは否定できず、日本では「治療は医師が決める」という風潮がいまだに強いと考察している。また、日本の医療現場では、病気の告知や治療について、患者本人より家族の意見を優先する風潮があることも挙げられている。現在も米国やオランダのように「患者の権利」を明確に定めた法律はなく、患者が自身の治療情報に接するためのカルテ開示は各医療機関が任意で行っているのが現状である。彼らが十分な情報を得られず、医師にものをいうのがはばかられる状況では、安楽死という重い決断をするのは危険であるとする。社会福祉の点でも、日本では老後の不安は依然として強く、遅れをとっている。
しかし制度面以上に、日本にとって最も難しいのは、個人主義の確立だと筆者は指摘する。告知後の家族との接し方、介護では家族の負担が大きいため、必ずしも本人の意思の尊重がよいわけではないという考えが根強い。また患者本人にも、治療方針を医師・家族任せにせず自分で考えることが求められる。日本では、安楽死の是非論より、患者の自己決定権をどう確立すべきかを探ることが先決といえそうだ。
判例の上では患者の自決権が認められつつあるが、日本でその法制化を求める運動は盛り上がりに欠ける。一方で国民の健康や福祉に対する関心は強く、「よき死」をめぐる議論は確実に深まっている。最終的に筆者は、安楽死は多くの死に方の一つにすぎず、まずは選択肢を広げる努力こそが必要だと締めくくっている。(要約以上)
オランダには個人主義が発達していて、個人の意思が尊重され、透明化を求める社会であるという素地が整っていたからこそ、安楽死のこれほど早いペースでの合法化が可能だったということがよくわかった。本著でも言及されていたように、個人主義が文化的にもいまだ十分に確立されていない日本では、オランダのやり方を取り入れたからといって、議論が進むとは一概に言えないのだなと思った。
全体を通し、安楽死を合法化していくにあたって様々な複雑で難しい倫理的・法的問題の壁がある中で、それらと正面から向き合い、政府や司法、医療諸機関が官民一体となって一つ一つ解決していくオランダ社会の素直な姿勢はすごいと思った。日本も単にオランダの制度を参考にするのみならず、安楽死を議論するうえでこのような姿勢を見習うべきなのではないだろうか。
意外なことだが、オランダでは多くの先進国でタブーとされている大麻や売春、同性婚が安楽死と同様認められている。需要がある以上、闇取引の消えることのない悪を頭から禁止してさらに深刻な犯罪を招くよりは、いっそ一定範囲でそれらを認める代わりにガラス張りにして管理しよう、というのが彼らの考え方だという。日本では、ほとんどすべての安楽死事件が内部告発によって刑事事件として明るみに出た形だが、オランダでは医師が患者を安楽死させた後、自ら警察に届け出ることで問題を提示していた。こういったところにも、彼らの物事を透明化して管理しようとする考え方が表れていると思った。
安楽死をめぐる意見対立の根本には、やはり生命に対する考え方の違いがあるのだろう。「どう死ぬか」を考えることは、そのまま「どう生きるか」を考えることである。「生きる価値ある命」とは何か、どうすれば皆が「自分は人生を十分全うした」と満足のいく死を迎えることができるのか、といった生きることに対する問いについて、非常に考えさせられた本だった。少し古い本なので、同じように、オランダや日本、各国の安楽死の今を知ることのできる最新版ができることを希望する。
以前安楽死・尊厳死について学んだ際、日本でそれらの定義、法の規定や一貫した診断基準を明確に定めるのは実質的に非常に難しいということであった。しかし、海外には安楽死を合法としている国もあり、そういった国ではいったいどのように法制化を実現したのか、日本とどのような点で違うのか、日本は彼らから何か学べることはないのだろうか―このような疑問をもち、見つけたのが本書である。本書では、安楽死合法化を30年でやり遂げたオランダの実例を通じて、日本での安楽死の是非を改めて考え、さらには、人間の「よき死」とはいったい何なのか、という根本の疑問に対する答えを探っていく。
(本文要約)
オランダには、人々が「どう死にたいか」を示すための携帯用リビング・ウィルとして、自発的安楽死協会(NVVE)の発行する「安楽死パスポート」と、安楽死法制化に反対するオランダ患者協会の発行する「生命のパスポート」がある。前者は、長時間昏睡状態に陥った場合、医師に安楽死させてほしいと意思表示するためのカードであり、後者は逆に、そのような場合でも絶対に安楽死は嫌だと意思表示するためのカードである。安楽死パスポートの発行部数は20万枚、対して生命のパスポートの発行部数はその約100分の1に過ぎない。世論調査(2001年時点)でも85%が安楽死に肯定的であり、およそ4人に1人が周囲で安楽死を見聞きしたことがあるという結果が、オランダ社会での安楽死の浸透を物語っている。人口約1700万、東京都と横浜市を合わせたほどの規模の小国で、年間死者数の2~3%にあたる人々が積極的安楽死をしているのだ。
オランダの安楽死合法化運動の発端となったのは、1971年の「ポストマ事件」である。脳溢血のため半身マヒ状態にあった78歳の母親に請われ、断りきれなくなったポストマ女医が彼女にモルヒネを注射して安楽死させ、嘱託殺人で起訴されたこの事件は、予想に反して安楽死の是非を問う国民議論へと発展した。判決は、患者の死期を早めても苦痛をとるための鎮痛剤投与は、不治の病、耐え難い苦痛があり、患者が死を希望していて医師が他の医師と相談のうえで実施する、という4要件の下で容認されるという立場を示した。NVVEもこの時、女医を支持した患者グループや法律家、医師らを中心に設立された。
安楽死合法化の推進力となったのは、66年に結成された中道左派の新党「民主66」である。安楽死を「個人の自決権」ととらえる医師や弁護士が参加し、それまで法廷が舞台だった安楽死問題を政治や国会の場で取り上げる担い手となっていった。壁となったのは安楽死に否定的なキリスト教系政党であり、この政党をどう動かすかが焦点になった。
84年には、95歳の女性患者を安楽死させた事件に対して、王立医師会が「終末期」の条件を外し患者の自決権に比重を置く新たな要件を示したことにより、安楽死容認の道が大きく拓かれた。民主66の政権参加により国家安楽死委員会が設立し、その後押しを受けながら、刑法を改正して安楽死を合法化する法案が国会に提出された。司法省は翌年、当要件を満たす安楽死については、医師を不起訴とする方針を正式に発表した。
安楽死パスポートの普及・社会的定着が進む中で、90年、政府は医師会と協力し安楽死届け出制度を開始。医師が安楽死を行った後約20の質問に答える報告書を提出する仕組みによって、安楽死の実体を透明化し、安易な実施に歯止めをかける狙いだった。また、元来病院以外の場所で人が「変死」した場合に、医師が死亡証明を出し、自治体の検視官が異常なしと認めたうえで埋葬許可が下りる手続きを定めた遺体埋葬法を、安楽死にも適用するように改定し、94年に発効。安楽死容認の法的枠組みがようやく実現した。
同年6月、体は健康であったものの、うつ状態にあり自殺未遂を繰り返していた50歳の女性を安楽死させた事件に対して刑罰を科さなかった判決は、安楽死の前提条件を精神的苦痛にまで拡大した。これは同時に、肉体的な病気を抱えていなくても、「人生からの離脱」の手段として安楽死ができるという概念が生まれたことを意味した。
その後、キリスト教政党は総選挙で大敗。労働・自民・民主66の連立3党は、世論の支持を受ける形で安楽死容認の刑法改定を定めた連立協定に合意し、99年、ついに安楽死法案が国会に提出された。
そして、2001年4月1日、世界初の安楽死法案は可決された。当法が対象とする安楽死は積極的安楽死と自殺幇助の2つ。(間接的安楽死はオランダでは単なる医療行為であり安楽死とはみなされない。延命治療の停止も同様)それぞれの刑法に、医師が要件を満たして行い、遺体埋葬法の規定に従って届け出をした場合、犯罪とはならないという項目が付け加えられた。刑法改正によって、要件を満たす安楽死を行った医師は「容疑者」扱いを免れ、要件違反があった場合に限り送検される制度に改まった。その要件とは、①患者の安楽死要請は自発的で熟慮されていた ②患者の苦痛は耐えがたく治療の見込みがない ③医師は病状や見込みについて十分に情報を与えた ④医師と患者がともに、他に妥当な解決策がないという結論に達した ⑤医師は少なくとも1人の別の医師と相談し、その医師が患者と面談し要件を満たしているという意見を示した ⑥医師は十分な医療上の配慮を行い絶命させた である。
患者を安楽死させた医師は、自治体の検視官に安楽死についての報告書を提出する義務がある(上記改定遺体埋葬法)。届け出を受けた検視官は、国内5か所に設置された「安楽死地域評価委員会」の一つに報告する。委員会は、報告を受けてから6週間以内に医師の行動が要件を着実に満たしているか審査し、違反があったと認定した場合に限って送検し、検察が刑事捜査に入る。さらに委員会は毎年、安楽死届け出状況を統計として発表する。
本書は、安楽死の制度化には社会に4つの条件が必要であるとして、①誰もが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度 ②腐敗がなく信頼度の高い医療 ③個人主義の徹底 ④教育の普及 をあげている。③は言うまでもなく、安楽死という自分の生死に関する最重要の問題に自身が向き合い、主体的判断を下せるか否かを指す。④は、一定の医学知識とともに、医師と向き合い、その言葉を正しく冷静に理解する患者の能力のことである。①や②に関しては、特にオランダでは、特別医療保険により高齢者の自立(1人暮らし)が可能であることや、寝たきりになっても年金で老後を賄えるしくみ、各地域のかかりつけ医の存在によるところが大きい。
合法化を果たしたオランダも依然、安楽死をめぐって様々な葛藤を抱えている。その一つは、生命を救う立場である医師が頻繁に死を求められる心理的苦痛である。これに対しては、彼らのさまざまな悩みに応じるため、王立医師会による安楽死ホットライン(安楽死に詳しい知識・経験を持つ医師が地域医の安楽死相談に応じるシステム)が設けられている。
どこまで死の権利を認めるべきか、という問題も重大である。未成年の安楽死については、安楽死法では16歳以上の未成年にも自決権を与え、当初12歳以上の子供に親の同意なしに安楽死要請の権利を認めていたが、その後12歳以上16歳未満の子供については保護者の同意がある場合に限り安楽死を認めると改正した。国内では、未成年と成人との間に権利格差を設けるべきではないという見方が強い。また、認知症を苦にする患者の安楽死は認められるかという問題も深刻さを増している。医療現場では審議の前から認知症を苦にする患者への安楽死は行われていたものの、政府は肯定的立場をとっているが医師の多くは否定的であり、国民的コンセンサスには至っていない。自分で意思表明のできない赤ちゃんの安楽死は可能なのかという問題も非常に難しい。
最後に日本とオランダの安楽死に関する医療現場の違いとして、横浜地裁判決を例にとり、日本はあくまで、積極的安楽死を肉体的苦痛を抱える終末患者に限定しており、安楽死の具体的な方法については言及していないとする。かつて問題となった京北病院事件、川崎協同病院事件においても、患者の安楽死の意思表明がない状態で、安楽死要件である「患者の自己決定権」を無視して致死薬を投与したことは否定できず、日本では「治療は医師が決める」という風潮がいまだに強いと考察している。また、日本の医療現場では、病気の告知や治療について、患者本人より家族の意見を優先する風潮があることも挙げられている。現在も米国やオランダのように「患者の権利」を明確に定めた法律はなく、患者が自身の治療情報に接するためのカルテ開示は各医療機関が任意で行っているのが現状である。彼らが十分な情報を得られず、医師にものをいうのがはばかられる状況では、安楽死という重い決断をするのは危険であるとする。社会福祉の点でも、日本では老後の不安は依然として強く、遅れをとっている。
しかし制度面以上に、日本にとって最も難しいのは、個人主義の確立だと筆者は指摘する。告知後の家族との接し方、介護では家族の負担が大きいため、必ずしも本人の意思の尊重がよいわけではないという考えが根強い。また患者本人にも、治療方針を医師・家族任せにせず自分で考えることが求められる。日本では、安楽死の是非論より、患者の自己決定権をどう確立すべきかを探ることが先決といえそうだ。
判例の上では患者の自決権が認められつつあるが、日本でその法制化を求める運動は盛り上がりに欠ける。一方で国民の健康や福祉に対する関心は強く、「よき死」をめぐる議論は確実に深まっている。最終的に筆者は、安楽死は多くの死に方の一つにすぎず、まずは選択肢を広げる努力こそが必要だと締めくくっている。(要約以上)
オランダには個人主義が発達していて、個人の意思が尊重され、透明化を求める社会であるという素地が整っていたからこそ、安楽死のこれほど早いペースでの合法化が可能だったということがよくわかった。本著でも言及されていたように、個人主義が文化的にもいまだ十分に確立されていない日本では、オランダのやり方を取り入れたからといって、議論が進むとは一概に言えないのだなと思った。
全体を通し、安楽死を合法化していくにあたって様々な複雑で難しい倫理的・法的問題の壁がある中で、それらと正面から向き合い、政府や司法、医療諸機関が官民一体となって一つ一つ解決していくオランダ社会の素直な姿勢はすごいと思った。日本も単にオランダの制度を参考にするのみならず、安楽死を議論するうえでこのような姿勢を見習うべきなのではないだろうか。
意外なことだが、オランダでは多くの先進国でタブーとされている大麻や売春、同性婚が安楽死と同様認められている。需要がある以上、闇取引の消えることのない悪を頭から禁止してさらに深刻な犯罪を招くよりは、いっそ一定範囲でそれらを認める代わりにガラス張りにして管理しよう、というのが彼らの考え方だという。日本では、ほとんどすべての安楽死事件が内部告発によって刑事事件として明るみに出た形だが、オランダでは医師が患者を安楽死させた後、自ら警察に届け出ることで問題を提示していた。こういったところにも、彼らの物事を透明化して管理しようとする考え方が表れていると思った。
安楽死をめぐる意見対立の根本には、やはり生命に対する考え方の違いがあるのだろう。「どう死ぬか」を考えることは、そのまま「どう生きるか」を考えることである。「生きる価値ある命」とは何か、どうすれば皆が「自分は人生を十分全うした」と満足のいく死を迎えることができるのか、といった生きることに対する問いについて、非常に考えさせられた本だった。少し古い本なので、同じように、オランダや日本、各国の安楽死の今を知ることのできる最新版ができることを希望する。
2006年6月11日に日本でレビュー済み
安楽死のできる国。
オランダ。
その国の現状、安楽死法のできるまでの過程、
そして、日本を含めたオランダ以外の国における安楽死の状況、
などが書かれている。
売春も大麻も合法な国、オランダは、
必要悪については、違法にして闇にもぐられるようりは、ルールを作って公明正大にやろう、
という国なのだそうで、
大人な国だなと思う。
安楽死の方法にはいろいろなものがある。
治療を中止する、致死薬を投与する、寿命は縮まる可能性はあるが苦痛を取り除けるような薬を投与する、患者自らが致死薬を飲む、など。
そして、安楽死を望む場合にもいろんな状況がある。
治る可能性のない病気になり、死が差し迫っており、耐え難い苦痛にさらされていて、患者本人も安楽死を望んでいるときには、それは確かに安楽死もしょうがないような気もするが、
だけど、オランダでは精神的苦痛で死を望む人にも安楽死を認めよう、というような考えまであるのだそう。
精神的苦痛に安楽死を認めたら、それはただの自殺幇助なんじゃないかと思ったりするのだが?
生死をも個人の選択に任せようというものすごい個人主義は、少し傲慢すぎるのではないだろうかと思えたりする。
自己の命は、自分のものであるとともに、家族など、自分の周りにいる人のものでもあるという面もあるだろうに。
いろんなことを考えさせられる本である。
オランダ。
その国の現状、安楽死法のできるまでの過程、
そして、日本を含めたオランダ以外の国における安楽死の状況、
などが書かれている。
売春も大麻も合法な国、オランダは、
必要悪については、違法にして闇にもぐられるようりは、ルールを作って公明正大にやろう、
という国なのだそうで、
大人な国だなと思う。
安楽死の方法にはいろいろなものがある。
治療を中止する、致死薬を投与する、寿命は縮まる可能性はあるが苦痛を取り除けるような薬を投与する、患者自らが致死薬を飲む、など。
そして、安楽死を望む場合にもいろんな状況がある。
治る可能性のない病気になり、死が差し迫っており、耐え難い苦痛にさらされていて、患者本人も安楽死を望んでいるときには、それは確かに安楽死もしょうがないような気もするが、
だけど、オランダでは精神的苦痛で死を望む人にも安楽死を認めよう、というような考えまであるのだそう。
精神的苦痛に安楽死を認めたら、それはただの自殺幇助なんじゃないかと思ったりするのだが?
生死をも個人の選択に任せようというものすごい個人主義は、少し傲慢すぎるのではないだろうかと思えたりする。
自己の命は、自分のものであるとともに、家族など、自分の周りにいる人のものでもあるという面もあるだろうに。
いろんなことを考えさせられる本である。
2003年10月13日に日本でレビュー済み
安楽死のできる国は、大麻も合法、同姓結婚も合法、という
透明で謎なオランダである。
日本という儒教の影響が濃く、保守的な単一民族国家に生まれ育った人には、
すんなりと理解するのは難しい背景を、この国は持っているようだ。
安楽死法を可能にした社会の背景を学ぶ入門書と言える。
この本は、安楽死が議論の対象となってから法制化までの約30年間の主な事件、
裁判の判決、医師会の動き、議会での論争など、事実の確認を軸に、
客観的で丁寧な取材が記録されてる。
また、取材を進めながらとまどい、時にわりきれない心境を
素直に述べる著者の姿に共感する読者は多いだろう。
しかし、「それで、法制化はなぜ可能だったのか」。
歴史が作り上げた文化的背景、自殺との境界や障害者の生きる権利について、
すでに終わった議論をさらっているだけで、あまりに客観的。
著者自身の疑問をぶつけ、もって踏み込んで取材をしてほしいと思う。
安楽死、という日本では議論が成熟していないテーマを扱っているわりに、
タイトル通り国の紹介で終わってしまっている感があるのが残念だ。
透明で謎なオランダである。
日本という儒教の影響が濃く、保守的な単一民族国家に生まれ育った人には、
すんなりと理解するのは難しい背景を、この国は持っているようだ。
安楽死法を可能にした社会の背景を学ぶ入門書と言える。
この本は、安楽死が議論の対象となってから法制化までの約30年間の主な事件、
裁判の判決、医師会の動き、議会での論争など、事実の確認を軸に、
客観的で丁寧な取材が記録されてる。
また、取材を進めながらとまどい、時にわりきれない心境を
素直に述べる著者の姿に共感する読者は多いだろう。
しかし、「それで、法制化はなぜ可能だったのか」。
歴史が作り上げた文化的背景、自殺との境界や障害者の生きる権利について、
すでに終わった議論をさらっているだけで、あまりに客観的。
著者自身の疑問をぶつけ、もって踏み込んで取材をしてほしいと思う。
安楽死、という日本では議論が成熟していないテーマを扱っているわりに、
タイトル通り国の紹介で終わってしまっている感があるのが残念だ。