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日教組 (新潮新書 397) 新書 – 2010/12/17
森口 朗
(著)
- 本の長さ239ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2010/12/17
- 寸法10.8 x 1.1 x 17.3 cm
- ISBN-104106103974
- ISBN-13978-4106103971
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出版社より
授業の復権 | 戦後教育で失われたもの | いじめの構造 | 日教組 | 誰が「道徳」を殺すのか―徹底検証「特別の教科 道徳」― | |
---|---|---|---|---|---|
カスタマーレビュー |
5つ星のうち3.8
20
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5つ星のうち3.3
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価格 | ¥660¥660 | ¥660¥660 | ¥748¥748 | ¥182¥182 | ¥836¥836 |
【新潮新書】森口朗 作品 | 不毛な教育改革論議はもうたくさん。学校再生のカギは「授業力」にある。子供たちの学力向上に命をかけた、戦後教育史に輝く「授業の達人」たちに学べ! | 己の力を顧みず、夢ばかり見て親に寄生し、努力せず不平等を嘆き、世の不条理にすぐ挫ける。そんな幼稚で情けない日本人を生み出した「戦後教育」を斬る。 | 「スクールカースト」とは何か。今教室で起きている現実を冷静に分析した上で、具体的にどう対処すればよいのか、わかりやすく提示する。 | 生徒の学力低下、教師の指導力不足の元凶と指弾されてきた先生たちの労働組合。その思想、組織、所業など、ベールに包まれてきた実態を丸裸にする。 | 戦後七十数年ぶりの教科化──狙いは?教科書は?先進各国では?道徳教育こそ国民性を表すと考える教育評論家が、誤解から盲点、問題点まで炙り出す。 |
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2010/12/17)
- 発売日 : 2010/12/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 239ページ
- ISBN-10 : 4106103974
- ISBN-13 : 978-4106103971
- 寸法 : 10.8 x 1.1 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 333,098位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 754位新潮新書
- - 27,043位教育・学参・受験 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1960(昭和35)年大阪府生まれ。教育評論家。東京都職員。
中央大学法学部卒。佛教大学修士課程(通信)教育学研究科修了。
95年~05年まで都内公立学校に勤務。
著書に『偏差値は子どもを救う』『授業の復権』『戦後教育で失われたもの』『いじめの構造』などがある。
徒党を組まない保守派。紙媒体ではじめてスクールカーストに言及した。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年12月27日に日本でレビュー済み
教育評論家の書いた日教組の本です。昨今は、マスコミ報道によって、日教組悪玉論は、固定化していますが、そこで、思考停止せずに、日教組について、できるだけ中立的な視線で、日教組という組織について論考しています。現在、弱体化し、影響力も低下しているのに、諸悪の根源として、スケープゴートにされている現在の日教組の姿も、丁寧に考証しています。今後の教育を考える時に、日教組について、立場を越えて、検証する必要性を強く感じました。過去の正しい認識なくして、未来へは進めないと思います。日教組をある種の教団としてとらえる見方は、納得のいくものでした。自らの価値感を押し付け、他の価値観を排斥していく、その狭量さは、社会が警戒すべきものなのかもしれません。ためになる本なので、評価は、星5つとしました。
2024年3月3日に日本でレビュー済み
本書を読む前に著者の森口朗(あきら)さんについて見てみたのですが、普通の評論家でWikiを見ると何やら変な学校の准教授。最初の数ページをめくって見ると「日教組が日本の教育をダメにしたという都市伝説は定着している」などと書いてあるし、こりゃアカン本を手にしてしまったわいと一旦読むのをやめました。
それでじゃあ代わりに何の本を読もうかと再びWikiの日教組の「参考文献」のセクションを見ると、まともに見える本が無い!
これは多分、日教組というグループ自体が何やらけったいな集団なのではあるまいかと、一旦捨てそうになった本書を再び読み始めました。
読み始めてみて、私は学校教育については完全な第三者で無知でしたが、書かれている事柄の要所要所をネットで確認してみると、森口さんは別に間違ったことを言っているわけでは無いことがわかります。
しかも文頭にあった日教組批判バイアスも、本文に入ると、その歴史的観点から評価すべきは評価しているのでフェアに書かれているんじゃないかと思います。
本書が刊行された2010年は2009年に誕生した鳩山由紀夫による民主党内閣の年で日教組が勢いを増してきたことを大いに懸念した森口さんが最初のページで思いを吐き出しすぎたのでしょう。結局2年後にまた自民党政権に戻るわけですが。
全体を通して見ると、この日教組という団体はその発生に大きな存在意義を有していて、それは敗戦後のGHQの戦略だということがわかりました。
岡崎久彦さんの「吉田茂とその時代」を読むとよく分かりますが、戦後の日本政府から保守右翼を排除しようとしたGHQは公職追放令で戦前戦中の思想を擁する政治家を追い払いますが、その際に出来るだけ保守右翼に歯向かう勢力を注入させようと、共産党員を獄中から解放します。
そういう文脈で本書を読むと、教育現場の若い教師たちに政治活動を勧め政権与党の動きに注意を払い民主主義の正しい世の中に向かうように努力せよとGHQが文部省の口を借りて言わせたのも合点がいきます。
「毒をもって毒を制す」という戦略です。アメリカがいつも失敗するやつです。
ところが世の中は目まぐるしく変わり、共産主義が脅威になるとGHQはレッドパージを始めて、共産党員の教員を解雇しろと言います。それで最後はGHQ自体もマッカーサーがクビになっていなくなり、代わりにやってきたのが在日米軍というわけです。
本書を読むとわかるのが、そういう変化の激しい時勢の中で、驚くなかれ日教組は始めてGHQに創設されたときのスピリッツを宿したまま戦後80年も連綿と生き続けているんだなという事です。GHQが当時の保守右翼を骨抜きにしようとして植え付けたミッションを日教組は忠実に守り続けて自民党に反抗し続けているということでしょう。
ただ、この問題が難しいのは、単に日教組を潰せばいいということではないことで、自民党がアメリカの新自由主義とズブズブの関係で、もし教職員が自民党の意のままに教育を行えば、大企業管理職になれない大多数の生徒には明るい未来が望めないということだと思います。
じゃあ、教員が集団的立場で何をすればいいのか?となると、やはり政治の世界にバランスをもたらすために今の立憲民主と国民民主を支援するという日教組の姿勢はあながち間違ってはいないんじゃないか?いくら理想を言っても今の日本で自民党を牽制できるのは彼らしかいないんだからしょうがない。政権を任せられるかどうかは別の話。
「日の丸」「君が代」反対運動は軍国主義回避の手段としては今やもう不要だろうと思うので、日教組は今は公式には反対運動を指示していないというのも理に適っています。
行き過ぎた性教育?これについての日教組の意図はよく分かりませんでした。
大切なのは教員たちが正しい歴史認識を持って決して自民党のメッセンジャーにならないようにすること。そして無闇に反体制を振りかざして校内で校長や教頭と無意味な争いをしないことじゃないでしょうか。
というわけで、本書の序文に書かれているように、本書を読んで日教組という組織の概要が掴めたように思えるので、最初に感じた拒否反応に従わず最後まで読んで良かったというのが率直な感想です。
それでじゃあ代わりに何の本を読もうかと再びWikiの日教組の「参考文献」のセクションを見ると、まともに見える本が無い!
これは多分、日教組というグループ自体が何やらけったいな集団なのではあるまいかと、一旦捨てそうになった本書を再び読み始めました。
読み始めてみて、私は学校教育については完全な第三者で無知でしたが、書かれている事柄の要所要所をネットで確認してみると、森口さんは別に間違ったことを言っているわけでは無いことがわかります。
しかも文頭にあった日教組批判バイアスも、本文に入ると、その歴史的観点から評価すべきは評価しているのでフェアに書かれているんじゃないかと思います。
本書が刊行された2010年は2009年に誕生した鳩山由紀夫による民主党内閣の年で日教組が勢いを増してきたことを大いに懸念した森口さんが最初のページで思いを吐き出しすぎたのでしょう。結局2年後にまた自民党政権に戻るわけですが。
全体を通して見ると、この日教組という団体はその発生に大きな存在意義を有していて、それは敗戦後のGHQの戦略だということがわかりました。
岡崎久彦さんの「吉田茂とその時代」を読むとよく分かりますが、戦後の日本政府から保守右翼を排除しようとしたGHQは公職追放令で戦前戦中の思想を擁する政治家を追い払いますが、その際に出来るだけ保守右翼に歯向かう勢力を注入させようと、共産党員を獄中から解放します。
そういう文脈で本書を読むと、教育現場の若い教師たちに政治活動を勧め政権与党の動きに注意を払い民主主義の正しい世の中に向かうように努力せよとGHQが文部省の口を借りて言わせたのも合点がいきます。
「毒をもって毒を制す」という戦略です。アメリカがいつも失敗するやつです。
ところが世の中は目まぐるしく変わり、共産主義が脅威になるとGHQはレッドパージを始めて、共産党員の教員を解雇しろと言います。それで最後はGHQ自体もマッカーサーがクビになっていなくなり、代わりにやってきたのが在日米軍というわけです。
本書を読むとわかるのが、そういう変化の激しい時勢の中で、驚くなかれ日教組は始めてGHQに創設されたときのスピリッツを宿したまま戦後80年も連綿と生き続けているんだなという事です。GHQが当時の保守右翼を骨抜きにしようとして植え付けたミッションを日教組は忠実に守り続けて自民党に反抗し続けているということでしょう。
ただ、この問題が難しいのは、単に日教組を潰せばいいということではないことで、自民党がアメリカの新自由主義とズブズブの関係で、もし教職員が自民党の意のままに教育を行えば、大企業管理職になれない大多数の生徒には明るい未来が望めないということだと思います。
じゃあ、教員が集団的立場で何をすればいいのか?となると、やはり政治の世界にバランスをもたらすために今の立憲民主と国民民主を支援するという日教組の姿勢はあながち間違ってはいないんじゃないか?いくら理想を言っても今の日本で自民党を牽制できるのは彼らしかいないんだからしょうがない。政権を任せられるかどうかは別の話。
「日の丸」「君が代」反対運動は軍国主義回避の手段としては今やもう不要だろうと思うので、日教組は今は公式には反対運動を指示していないというのも理に適っています。
行き過ぎた性教育?これについての日教組の意図はよく分かりませんでした。
大切なのは教員たちが正しい歴史認識を持って決して自民党のメッセンジャーにならないようにすること。そして無闇に反体制を振りかざして校内で校長や教頭と無意味な争いをしないことじゃないでしょうか。
というわけで、本書の序文に書かれているように、本書を読んで日教組という組織の概要が掴めたように思えるので、最初に感じた拒否反応に従わず最後まで読んで良かったというのが率直な感想です。
2022年8月31日に日本でレビュー済み
現状の日教組は最後にまとめられています。
「長期低落傾向にありながら、統制がとれず、古い左翼思想から脱却できずに苦悩している雑多な教師集団」
本書はまず冒頭で、日教組に加入しているのは普通の教師が大半であることが指摘されています。
逆説的ですが、日教組の加入率が高い地区ほど、普通の教師が多数加入しているので、むしろ普通の教育がなされているようです。
日教組はその歴史から、共産主義との親和性が高く、偏向教育を行う教師も加入しています。そのせいもあり、学力低下など日教組悪玉論が盛んに言われています。
ですが、データからは日教組にはそれほどの力がなく、いまでは日教組といえども極端な偏向教育をかばうことはできないようです。
組合員の多くは普通の教職員なので、教職員の支持が必要という背景もあるようです。
だからといって、このままで良いというわけではありません。
著者は日教組となれ合ってきた自民党政権にも厳しい批判をしています。
いろいろと考えさせらえる本だと思います。
日教組について知りたいひとのために!
「長期低落傾向にありながら、統制がとれず、古い左翼思想から脱却できずに苦悩している雑多な教師集団」
本書はまず冒頭で、日教組に加入しているのは普通の教師が大半であることが指摘されています。
逆説的ですが、日教組の加入率が高い地区ほど、普通の教師が多数加入しているので、むしろ普通の教育がなされているようです。
日教組はその歴史から、共産主義との親和性が高く、偏向教育を行う教師も加入しています。そのせいもあり、学力低下など日教組悪玉論が盛んに言われています。
ですが、データからは日教組にはそれほどの力がなく、いまでは日教組といえども極端な偏向教育をかばうことはできないようです。
組合員の多くは普通の教職員なので、教職員の支持が必要という背景もあるようです。
だからといって、このままで良いというわけではありません。
著者は日教組となれ合ってきた自民党政権にも厳しい批判をしています。
いろいろと考えさせらえる本だと思います。
日教組について知りたいひとのために!
2019年2月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
教員の管理労働強化で日本の教育は滅びそうです。どうしてここまで教員は叩かれたのか、それは日教組という癌を潰すために抗ガン剤を飲み今その副作用に苦しみ普通の教員までも退治されてしまったためです。
2014年4月24日に日本でレビュー済み
著者は東京都職員で、本書は2010年の本。タイトルの通り日教組解説なのだが、全体的に批判的である。日教組についてだけでなく、左翼の歴史を概観する上でもためになる。ただし、必ずしも時系列ではないため、錯綜するところもある。
曰く・・・
教員は直接日教組に入るわけではない。日教組傘下の教職員組合に入ると自動的に日教組に所属したことになる。
日教組は、社民党の候補者なら全員応援していると思う。民主党なら左派系を応援。
大多数の日教組教員は、昔は左翼的主張が正しいと思っていたが今は何が正しいのか自信がない、しかし、なんとなく辞められない、というのが実態だろう。
戦後、文部省はGHQの方針に屈服し、恭順の意を示すために教職員組合を作らせた。また、文部省がGHQの方針にしたがって出した新教育指針では、日本は近代精神の理解が浅い、人格や個性が尊重されない、批判精神に乏しい、合理的精神に乏しいなど、自虐的に自己反省をし、これを是正すると宣言している。
戦後に結成された全日本教員組合協議会は組織拡大にともなって非共産系に実権がうつり、教員組合全国連盟等と合同して1947年に日本教職員組合(日教組)が結成される。
日教組は、文部省から渡された新教育指針によって誕生し、その手引書の教えを忠実に守ってきた。新教育指針には教師は政治を正しい方向に指導すべし(政治介入奨励)、ともある。体罰は戦前から法律で禁止されていたが実際には横行していた。日教組批判の多くは言いがかりであり、批判すべきは戦後民主主義教育であり、その根源は文部省、ひいては自民党(およびその前身政党)である。日教組は、戦後民主主義教育を愚直に推進してきただけの団体、という見方もできる。
日教組の対文部省の闘争は連戦連勝状態だったが、この状況にメスを入れたのが中曽根康弘。中曽根は、文部省が日教組に毎度押し切られるのは、闘争が教育関係者だけの問題になってしまっているからと考え、中央教育審議会(文部大臣の諮問機関)とは別に総理直属諮問機関である臨時教育審議会(臨教審)を作る。臨教審は明確な新自由主義路線。臨教審の教育改革は「枠組み」そのものの変更だったため、日教組の得意戦術(都道府県や学校現場に問題を持ち込んで教育委員会や校長を抱き込み、骨抜きにする戦術)が効かない。臨教審により日教組の弱体化が始まる。
1980年代後半に日本労働組合総評議会や全日本労働総同盟などが統一され巨大な日本労働組合総連合会(連合)が誕生する。連合への加盟をめぐり日教組の内部対立(積極的な社会党右派、消極的な社会党左派、断固反対の共産党)が表面化。左派は右派に屈服して日教組は連合に加盟し、共産党系は全日本教職員組合(全教)を結成する。
戦前の学校では御真影と教育勅語が奉安所(学校にある特別の場所)に収められ、四大節(紀元節など)のときだけ取り出して、これに礼拝し、校長が教育勅語を奉読する。まさに、教師は聖職者だった。ただ、敗戦により奉安所の多くは取り壊され、どうも御真影の多くもこっそり焼却処分されているらしい。人心の変化が激しい。
新教育方針は、民主主義を広めるという新しい役割を教師に与え、教職員組合という教団の設立さえ奨励している。これにより神を失った教育者(聖職者)は元気を取り戻す。ただちに新しい神様(民主主義)へと宗旨替えして聖職者の地位にとどまった。
1952年に日教組は教師の倫理綱領を発表する。これは文部省とは関係ない。この倫理要項は、新経典であり、マルクス主義を基礎にしている。
共産主義者は、労働だけが価値の源泉であると考え(労働価値説)、資本主義の価値分配は不平等で、労働の再生産に必要な分だけしか労働者に配分されず、剰余はすべて資本家が受け取り、これが搾取である、と考える。共産主義は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会を理想とする。社会というのはその生産力に見合った生産関係(下部構造)が存在し、その生産関係に見合った政治構造や文化等(上部構造)を持つので、生産力が向上すると生産関係が変化し、生産関係が変化すると上部構造も変化せざるをえず、この変化こそが歴史だと考える(唯物史観)。それゆえ、表現の自由、集会結社の自由などの人権や代議制民主主義を基礎とした現代のデモクラシーも、現在の生産力に見合った資本主義、資本主義という生産関係に見合った制度でしかなく、所詮は資本家にとって都合のいいものでしかない。ゆえに暴力革命によって政府を打倒し、労働者を代表する共産党を通じた独裁支配体制を実現し、社会主義社会を招来する必要があり、そこでの政治システムを民主集中制と呼ぶ。
倫理綱領が出された頃は、共産主義を理解した上で日教組を支持するコア組合員(本音・密教信者)となんとなく戦後民主主義はいいもので日教組はそれを追求する団体なのだろうと考える大衆組合員(大衆用の建前:顕教信者)が並存する。幹部用の思想である共産主義と一般組合員用の思想である戦後民主主義が分離している。組合活動を通じて一部の顕教信者が密教信者へ変わっていく。
日教組の基本方針は年1回の定期大会で決まるが、代議員から顕教信者は排除される。となると代議員は共産党系濃度が高くなるがそれでも主流派は非共産系である。非共産系は一枚岩ではないものの、結果的には非共産系の社会主義協会派が中心となる。
日本共産党と社会主義協会の主メンバーは戦前から共産主義運動の担い手であるが、もともとは講座派と労農派に分かれて理論的対立をしている。共産主義は科学であり唯物史観は絶対の真理であると認める点では共通する。講座派(共産党)は、日本は資本主義の前段階であり、フランス革命のようなブルジョア革命が必要であり、天皇制(絶対王政)を打倒すべきという考え方。労農派は明治維新をブルジョア革命と考え、次に来るべきは社会主義革命であるという考え方。
敗戦後、共産党幹部(多くは獄中から解放)は進駐軍を解放軍と位置づけるが、米ソ対立が勃発するとソ連にこれを批判される。ソ連の批判を遺憾と考える所管派と、ソ連に恭順する国際派に内部分裂する。最終的に国際派が権力を握るが、他国の共産党に従属しない自主独立路線を明確化することになる。
労農派は社会党左派を結成。マルクス・レーニン主義を絶対視し、ソ連べったり。昭和のファシズムと戦えなかったという点で共産党にコンプレックスがあり、元祖のソ連に近づくことでそのコンプレックスを解消しようとしたという分析もある。こうして日教組主流派は親ソ派、親社会主義国家派となり、資本主義の日本政府になんでも反対するようになる。
1960年代後半に大学生だった世代から新左翼とよばれる集団が支持を集める。新左翼は、平和革命を志向する社会主義協会派や暴力革命を起こしそうもない共産党を戦わない左翼と批判し、自分たちを戦闘的左翼と位置づける。一部は教員などの地方公務員や国鉄・電電公社などの国家公務員として政府系機関に潜り込む。組織で仲間を増やして乗っ取るという加入戦術。ただし、一枚岩ではない。新左翼はソ連も否定し、共産主義を原理主義的に捉えて暴力革命を起こそうという集団である。
1958年に管理職手当を校長に支給するという法案が可決される。日教組は管理職手当を返納せよと要求するが(校長を「管理職」にして権力の末端にしようとしていると批判)、これが校長たちの組合不信を生み(やっぱり手当は欲しい)、校長や教頭の多くが組合を離脱する。こうして校長は教育委員会の命令を実行に移す管理職となり、教師たちのボスとしてとどまった者もいるが、教育委員会から派遣されてきた駐在さんのようになってしまう者も多い。
禁酒法は、深酒をよしとしないピューリタン(プロテスタント)の伝統的倫理観と、新参者で酒豪が多かったアイルランド移民(カソリック)への反発、第一次世界大戦により生じた穀物不足解消という経済的目論見が背景にある。ただ、飲酒そのものは禁じられず、製造・販売・運搬のみが禁じられる。そうなるとカタギは酒関連産業から手を引くので、マフィアが酒産業に乗り込み大繁盛する。そうなると禁酒法を廃止しようとする政治家もあらわれるが、マフィアも禁酒法を維持しようと政治家を抱き込もうとする。マフィアに金をもらった政治家がキリスト教道徳を説いて禁酒法を維持しようとするいびつな状況が生じる。
日本では公務員の政治活動は禁止されているが罰則がない。ゆえに確信犯的教員は社民党や民主党の運動員として積極的に活動する。
国家公務員法には、政府を暴力で破壊することを主張する政党の加入者を公務員にしてはならないという欠格条項がありながら、自民党はまともにこの条項を適用したことがない。
日教組幹部は密教信者なので本音では資本主義国家の国旗や国歌は嫌いだろうが、それを前面に出すと国民も教員も日教組に賛同してくれなくなるので、国歌国旗をやり玉にあげていた学校は実はほんの一部。
自民党の宏池会は伝統的にリベラルで、共産主義にも寛容なところがある。
1930年代にスターリンがヨーロッパの社会民主主義を敵視したため、西欧の社会民主主義と共産主義とは不倶戴天となる。1962年の社会主義インターナショナル決議(オスロ宣言)では共産主義を全体主義と明記している。ヨーロッパの社会民主主義者は共産主義を容認することを悪徳と考える。
アメリカのリベラリズムはニューディール政策を実行した人々に始まり、もともと共産主義には比較的寛容(政策的類似性もある)だったが、冷戦を通じて共産主義は徹底排除され、共産主義は自由に対する敵、というのが常識。
社会民主主義やリベラリズムはデモクラシーの中の政策選択だが、共産主義の肯定や容認はデモクラシーの否定であるという信念が確立している。
日本では、軍国主義と戦った唯一の勢力という共産党のイメージがあり、「共産主義否定→軍国主義肯定」というイメージ上の親和性がある。学者にも共産主義者は多かった。宏池会はインテリ集団であり、それゆえに日教組を壊滅させることに二の足を踏んだ代議士が多かった。
教育問題は金にも票にもならないが、選挙直前なら社会党(社民党)や民主党へのネガティブキャンペーンに使える。日教組を叩けば、一定数の保守票を掘り起こせると自民党は考えている。
公職選挙法では、選挙運動員は基本的にボランティアでなければならないとする。こうなると共産党や公明党のような「信者的な支持者」を抱えるところは有利。これに対し、自民党や民主党は、ゼネコン丸抱え選挙、労働組合丸抱え選挙という道を編み出す。ゼネコンや労働組合は選挙時に無償で働くボランティア要員を抱え、応援した議員が当選すれば利益がある。営業活動みたいなもの。法律が小銭(アルバイト代)を規制するがゆえに大金(利権)と結びついた人しか選挙を戦えないという皮肉がある。こういう背景があるので伝統的支持基盤をもたない民主党は日教組へ依存せざるを得ない。
日教組を特徴づけるのが平和学習と人権学習。米軍基地に反対するが北朝鮮の核兵器や中国の軍備拡張は扱わないし、部落差別や朝鮮人差別は扱うが北朝鮮の拉致事件、法輪功弾圧やチベット弾圧は扱わない。変わってきたともいわれるが、あいかわらず左翼的思想をもっている。
日教組の組織率は年々低下しているが新人加入率は20%で安定している。最終的には20%で落ち着くと思われる。しかし、密教信者は補給されないし、密教信者の多い団塊の世代はどんどん引退している。日教組は新陳代謝により弱体化と正常化の過程にある。日教組は、長期低落傾向にありながら、統制がとれず、古い左翼思想から脱却できずに苦悩している雑多な教師集団に過ぎない。
みたいな話。
曰く・・・
教員は直接日教組に入るわけではない。日教組傘下の教職員組合に入ると自動的に日教組に所属したことになる。
日教組は、社民党の候補者なら全員応援していると思う。民主党なら左派系を応援。
大多数の日教組教員は、昔は左翼的主張が正しいと思っていたが今は何が正しいのか自信がない、しかし、なんとなく辞められない、というのが実態だろう。
戦後、文部省はGHQの方針に屈服し、恭順の意を示すために教職員組合を作らせた。また、文部省がGHQの方針にしたがって出した新教育指針では、日本は近代精神の理解が浅い、人格や個性が尊重されない、批判精神に乏しい、合理的精神に乏しいなど、自虐的に自己反省をし、これを是正すると宣言している。
戦後に結成された全日本教員組合協議会は組織拡大にともなって非共産系に実権がうつり、教員組合全国連盟等と合同して1947年に日本教職員組合(日教組)が結成される。
日教組は、文部省から渡された新教育指針によって誕生し、その手引書の教えを忠実に守ってきた。新教育指針には教師は政治を正しい方向に指導すべし(政治介入奨励)、ともある。体罰は戦前から法律で禁止されていたが実際には横行していた。日教組批判の多くは言いがかりであり、批判すべきは戦後民主主義教育であり、その根源は文部省、ひいては自民党(およびその前身政党)である。日教組は、戦後民主主義教育を愚直に推進してきただけの団体、という見方もできる。
日教組の対文部省の闘争は連戦連勝状態だったが、この状況にメスを入れたのが中曽根康弘。中曽根は、文部省が日教組に毎度押し切られるのは、闘争が教育関係者だけの問題になってしまっているからと考え、中央教育審議会(文部大臣の諮問機関)とは別に総理直属諮問機関である臨時教育審議会(臨教審)を作る。臨教審は明確な新自由主義路線。臨教審の教育改革は「枠組み」そのものの変更だったため、日教組の得意戦術(都道府県や学校現場に問題を持ち込んで教育委員会や校長を抱き込み、骨抜きにする戦術)が効かない。臨教審により日教組の弱体化が始まる。
1980年代後半に日本労働組合総評議会や全日本労働総同盟などが統一され巨大な日本労働組合総連合会(連合)が誕生する。連合への加盟をめぐり日教組の内部対立(積極的な社会党右派、消極的な社会党左派、断固反対の共産党)が表面化。左派は右派に屈服して日教組は連合に加盟し、共産党系は全日本教職員組合(全教)を結成する。
戦前の学校では御真影と教育勅語が奉安所(学校にある特別の場所)に収められ、四大節(紀元節など)のときだけ取り出して、これに礼拝し、校長が教育勅語を奉読する。まさに、教師は聖職者だった。ただ、敗戦により奉安所の多くは取り壊され、どうも御真影の多くもこっそり焼却処分されているらしい。人心の変化が激しい。
新教育方針は、民主主義を広めるという新しい役割を教師に与え、教職員組合という教団の設立さえ奨励している。これにより神を失った教育者(聖職者)は元気を取り戻す。ただちに新しい神様(民主主義)へと宗旨替えして聖職者の地位にとどまった。
1952年に日教組は教師の倫理綱領を発表する。これは文部省とは関係ない。この倫理要項は、新経典であり、マルクス主義を基礎にしている。
共産主義者は、労働だけが価値の源泉であると考え(労働価値説)、資本主義の価値分配は不平等で、労働の再生産に必要な分だけしか労働者に配分されず、剰余はすべて資本家が受け取り、これが搾取である、と考える。共産主義は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会を理想とする。社会というのはその生産力に見合った生産関係(下部構造)が存在し、その生産関係に見合った政治構造や文化等(上部構造)を持つので、生産力が向上すると生産関係が変化し、生産関係が変化すると上部構造も変化せざるをえず、この変化こそが歴史だと考える(唯物史観)。それゆえ、表現の自由、集会結社の自由などの人権や代議制民主主義を基礎とした現代のデモクラシーも、現在の生産力に見合った資本主義、資本主義という生産関係に見合った制度でしかなく、所詮は資本家にとって都合のいいものでしかない。ゆえに暴力革命によって政府を打倒し、労働者を代表する共産党を通じた独裁支配体制を実現し、社会主義社会を招来する必要があり、そこでの政治システムを民主集中制と呼ぶ。
倫理綱領が出された頃は、共産主義を理解した上で日教組を支持するコア組合員(本音・密教信者)となんとなく戦後民主主義はいいもので日教組はそれを追求する団体なのだろうと考える大衆組合員(大衆用の建前:顕教信者)が並存する。幹部用の思想である共産主義と一般組合員用の思想である戦後民主主義が分離している。組合活動を通じて一部の顕教信者が密教信者へ変わっていく。
日教組の基本方針は年1回の定期大会で決まるが、代議員から顕教信者は排除される。となると代議員は共産党系濃度が高くなるがそれでも主流派は非共産系である。非共産系は一枚岩ではないものの、結果的には非共産系の社会主義協会派が中心となる。
日本共産党と社会主義協会の主メンバーは戦前から共産主義運動の担い手であるが、もともとは講座派と労農派に分かれて理論的対立をしている。共産主義は科学であり唯物史観は絶対の真理であると認める点では共通する。講座派(共産党)は、日本は資本主義の前段階であり、フランス革命のようなブルジョア革命が必要であり、天皇制(絶対王政)を打倒すべきという考え方。労農派は明治維新をブルジョア革命と考え、次に来るべきは社会主義革命であるという考え方。
敗戦後、共産党幹部(多くは獄中から解放)は進駐軍を解放軍と位置づけるが、米ソ対立が勃発するとソ連にこれを批判される。ソ連の批判を遺憾と考える所管派と、ソ連に恭順する国際派に内部分裂する。最終的に国際派が権力を握るが、他国の共産党に従属しない自主独立路線を明確化することになる。
労農派は社会党左派を結成。マルクス・レーニン主義を絶対視し、ソ連べったり。昭和のファシズムと戦えなかったという点で共産党にコンプレックスがあり、元祖のソ連に近づくことでそのコンプレックスを解消しようとしたという分析もある。こうして日教組主流派は親ソ派、親社会主義国家派となり、資本主義の日本政府になんでも反対するようになる。
1960年代後半に大学生だった世代から新左翼とよばれる集団が支持を集める。新左翼は、平和革命を志向する社会主義協会派や暴力革命を起こしそうもない共産党を戦わない左翼と批判し、自分たちを戦闘的左翼と位置づける。一部は教員などの地方公務員や国鉄・電電公社などの国家公務員として政府系機関に潜り込む。組織で仲間を増やして乗っ取るという加入戦術。ただし、一枚岩ではない。新左翼はソ連も否定し、共産主義を原理主義的に捉えて暴力革命を起こそうという集団である。
1958年に管理職手当を校長に支給するという法案が可決される。日教組は管理職手当を返納せよと要求するが(校長を「管理職」にして権力の末端にしようとしていると批判)、これが校長たちの組合不信を生み(やっぱり手当は欲しい)、校長や教頭の多くが組合を離脱する。こうして校長は教育委員会の命令を実行に移す管理職となり、教師たちのボスとしてとどまった者もいるが、教育委員会から派遣されてきた駐在さんのようになってしまう者も多い。
禁酒法は、深酒をよしとしないピューリタン(プロテスタント)の伝統的倫理観と、新参者で酒豪が多かったアイルランド移民(カソリック)への反発、第一次世界大戦により生じた穀物不足解消という経済的目論見が背景にある。ただ、飲酒そのものは禁じられず、製造・販売・運搬のみが禁じられる。そうなるとカタギは酒関連産業から手を引くので、マフィアが酒産業に乗り込み大繁盛する。そうなると禁酒法を廃止しようとする政治家もあらわれるが、マフィアも禁酒法を維持しようと政治家を抱き込もうとする。マフィアに金をもらった政治家がキリスト教道徳を説いて禁酒法を維持しようとするいびつな状況が生じる。
日本では公務員の政治活動は禁止されているが罰則がない。ゆえに確信犯的教員は社民党や民主党の運動員として積極的に活動する。
国家公務員法には、政府を暴力で破壊することを主張する政党の加入者を公務員にしてはならないという欠格条項がありながら、自民党はまともにこの条項を適用したことがない。
日教組幹部は密教信者なので本音では資本主義国家の国旗や国歌は嫌いだろうが、それを前面に出すと国民も教員も日教組に賛同してくれなくなるので、国歌国旗をやり玉にあげていた学校は実はほんの一部。
自民党の宏池会は伝統的にリベラルで、共産主義にも寛容なところがある。
1930年代にスターリンがヨーロッパの社会民主主義を敵視したため、西欧の社会民主主義と共産主義とは不倶戴天となる。1962年の社会主義インターナショナル決議(オスロ宣言)では共産主義を全体主義と明記している。ヨーロッパの社会民主主義者は共産主義を容認することを悪徳と考える。
アメリカのリベラリズムはニューディール政策を実行した人々に始まり、もともと共産主義には比較的寛容(政策的類似性もある)だったが、冷戦を通じて共産主義は徹底排除され、共産主義は自由に対する敵、というのが常識。
社会民主主義やリベラリズムはデモクラシーの中の政策選択だが、共産主義の肯定や容認はデモクラシーの否定であるという信念が確立している。
日本では、軍国主義と戦った唯一の勢力という共産党のイメージがあり、「共産主義否定→軍国主義肯定」というイメージ上の親和性がある。学者にも共産主義者は多かった。宏池会はインテリ集団であり、それゆえに日教組を壊滅させることに二の足を踏んだ代議士が多かった。
教育問題は金にも票にもならないが、選挙直前なら社会党(社民党)や民主党へのネガティブキャンペーンに使える。日教組を叩けば、一定数の保守票を掘り起こせると自民党は考えている。
公職選挙法では、選挙運動員は基本的にボランティアでなければならないとする。こうなると共産党や公明党のような「信者的な支持者」を抱えるところは有利。これに対し、自民党や民主党は、ゼネコン丸抱え選挙、労働組合丸抱え選挙という道を編み出す。ゼネコンや労働組合は選挙時に無償で働くボランティア要員を抱え、応援した議員が当選すれば利益がある。営業活動みたいなもの。法律が小銭(アルバイト代)を規制するがゆえに大金(利権)と結びついた人しか選挙を戦えないという皮肉がある。こういう背景があるので伝統的支持基盤をもたない民主党は日教組へ依存せざるを得ない。
日教組を特徴づけるのが平和学習と人権学習。米軍基地に反対するが北朝鮮の核兵器や中国の軍備拡張は扱わないし、部落差別や朝鮮人差別は扱うが北朝鮮の拉致事件、法輪功弾圧やチベット弾圧は扱わない。変わってきたともいわれるが、あいかわらず左翼的思想をもっている。
日教組の組織率は年々低下しているが新人加入率は20%で安定している。最終的には20%で落ち着くと思われる。しかし、密教信者は補給されないし、密教信者の多い団塊の世代はどんどん引退している。日教組は新陳代謝により弱体化と正常化の過程にある。日教組は、長期低落傾向にありながら、統制がとれず、古い左翼思想から脱却できずに苦悩している雑多な教師集団に過ぎない。
みたいな話。