日本の文化がブレンド(ブレンドコーヒーのようにコーヒーという同種のものを混ぜる)する文化ではなく、ミックス(ミックスジュースのようにバナナ・リンゴ・パイナップル・ハチミツなど種類の違うものを混ぜる)文化であることに氣づかせてくれた一冊でした。異質のものを排除せずまずは受け入れ、受け入れて快適そうな部分を選択し、手を加えて快適に作り替える。この「受容」→「選択」→「変容」の3STEPを「和」というのだという論がこころにすっと入ってきました。
また、なぜディベートといわれるような議論を自分自身が好まないのかに氣づかされたのもこの一冊を読んだからでした。そう、夏の蒸し暑さをもつ日本という環境が、「間」を与えない話の流れにうんざりするから…。日本人である自分自身の日本人理解に大いに貢献した長谷川氏の一冊だったと考えます。
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和の思想: 異質のものを共存させる力 (中公新書 2010) 新書 – 2009/6/1
長谷川 櫂
(著)
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2009/6/1
- ISBN-104121020103
- ISBN-13978-4121020109
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2009/6/1)
- 発売日 : 2009/6/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 208ページ
- ISBN-10 : 4121020103
- ISBN-13 : 978-4121020109
- Amazon 売れ筋ランキング: - 193,785位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 964位中公新書
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年12月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても面白く読ませて頂きました。
古本でも中身はまだ生きています。
古本でも中身はまだ生きています。
2009年9月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
長谷川氏は「和とは本来、さまざまな異質のものをなごやかに調和させる力である」という。
なぜ、和の力が日本に生まれたか? 長谷川櫂氏の結論を要約すると三つある。
1 この国が緑の野山と青い海原のほか何もない、いわば空白の島国だったこと。
2 さまざまな人と文化が渡来したこと。
3 島国の夏は異様に蒸し暑く、人びとはこれを嫌い、涼しさを好む感覚を身につけたこと。
この本の構成自体がまさに氏の理解した日本文化本来の「和」の特質を体現した好著である。
しかし、「蒸し暑き夏」を強調しすぎたきらいもある。
なぜなら、東北の人間としては、長い寒さの日々の中、修験の神仏の力をたよりに生き抜いて、短い夏に山の神や鬼や獅子となって舞う「早池峰神楽」や精進潔斎して臨む厳寒の正月の「大日堂舞楽」などに東北文化のエネルギーの高みを見出す。そして南島も並立させた「いくつもの日本」を見据え、四季の移ろいを見据えてこそ真の「和の思想」と思うからである。
なぜ、和の力が日本に生まれたか? 長谷川櫂氏の結論を要約すると三つある。
1 この国が緑の野山と青い海原のほか何もない、いわば空白の島国だったこと。
2 さまざまな人と文化が渡来したこと。
3 島国の夏は異様に蒸し暑く、人びとはこれを嫌い、涼しさを好む感覚を身につけたこと。
この本の構成自体がまさに氏の理解した日本文化本来の「和」の特質を体現した好著である。
しかし、「蒸し暑き夏」を強調しすぎたきらいもある。
なぜなら、東北の人間としては、長い寒さの日々の中、修験の神仏の力をたよりに生き抜いて、短い夏に山の神や鬼や獅子となって舞う「早池峰神楽」や精進潔斎して臨む厳寒の正月の「大日堂舞楽」などに東北文化のエネルギーの高みを見出す。そして南島も並立させた「いくつもの日本」を見据え、四季の移ろいを見据えてこそ真の「和の思想」と思うからである。
2009年7月16日に日本でレビュー済み
本書は、詩人として活躍する著者が
日本文化の根本にある『和』の思想について論じる著作です。
筆者は日本文化の「異質なものの共存」や「間」という特性に注目。
その具体例として、
憶良、芭蕉、兼好等の詩歌や、旅館『蓬莱』の調度品
さらに隈研吾さんの建築などを示し、
日本文化が異質なものをどのように受容し、変化させ
共存するにいっているのか―その動態を描きます。
そしてそのうえで、これら支える要因として、
風土の高温多湿さと、「何もなさ」を指摘します。。
芭蕉の句についての解説や
師宣の絵画に見られる江戸時代の色彩感覚
など、興味深い記述は各所にありますが
谷崎の『陰影礼賛』に表出した東洋文化への侮蔑について、
世代的な要因を指摘する箇所は、まさしく蒙きを啓らむ。
ありがちな風土論―と甘く見ていたのですが
筆者の議論の奥深さや射程の広さにとても驚きました。
多くの実例をもとに『和』のダイナミズムを論じ、
インスピレーションに満ちた本書。
俳句や建築等に興味のある方だけではなく、
一人でも多くの方に読んでいただきたい著作です☆
日本文化の根本にある『和』の思想について論じる著作です。
筆者は日本文化の「異質なものの共存」や「間」という特性に注目。
その具体例として、
憶良、芭蕉、兼好等の詩歌や、旅館『蓬莱』の調度品
さらに隈研吾さんの建築などを示し、
日本文化が異質なものをどのように受容し、変化させ
共存するにいっているのか―その動態を描きます。
そしてそのうえで、これら支える要因として、
風土の高温多湿さと、「何もなさ」を指摘します。。
芭蕉の句についての解説や
師宣の絵画に見られる江戸時代の色彩感覚
など、興味深い記述は各所にありますが
谷崎の『陰影礼賛』に表出した東洋文化への侮蔑について、
世代的な要因を指摘する箇所は、まさしく蒙きを啓らむ。
ありがちな風土論―と甘く見ていたのですが
筆者の議論の奥深さや射程の広さにとても驚きました。
多くの実例をもとに『和』のダイナミズムを論じ、
インスピレーションに満ちた本書。
俳句や建築等に興味のある方だけではなく、
一人でも多くの方に読んでいただきたい著作です☆
2021年1月13日に日本でレビュー済み
面白いですけど
和と洋とか、現代はいくら何でも分けて考えすぎだと思いますね
地球と火星を比較して地球の特徴に気付くこともあるかもしれないですけど、何もかも火星と比較しても仕方がないですし、大体結局所詮人類、似た者同士だから比べたくなるわけで、本当に何かを知りたいと思い立った時の方法論的な意味合いよりも、分けて考えたいという感情に重きを置きすぎだと思うですよ。こういう研究方法は、まぁ売れるから和とか日本人とか付けてあるんでしょうが、この10年くらいずっと上方置換法しかしてないようなものなんで、もういいんじゃないかと思いますけどね。学術的にこの方法で、まだ他よりも巨大な富が発見できるという予算があるんですかね。時々はこういう内向的なのもいいですけどね、時々は純文学も読もうみたいな。
もしくはかつてのテーブルマナーみたいなもので50歳くらいになると、多くの個人がマナーのようなものを求めるようになり、現在ではその世代の人たちのテーブルマナーのようなあってもなくてもいいような共通概念にこういうものが大受けしているということなのかなとも思いますけど、何か受け皿が欲しいんでしょうね個人心理として。結局、個人のことを分かってない人がこういうのにばかり手を出しているような印象を受けてしまいますが、他世代からすると。ロッテンマイヤーさんみたいなものですかね、そういう人は数が実際に多いかというよりも声が大きいので
まあ、それだけですね。星の数は適当です。個人的にはもう少しこういう本が静かに読める世の中になればいいなと私は思います。テーブルマナーにうるさい人が沢山いる世の中で読むテーブルマナー本ほど嫌なものはないですからね。
最後になりますが、星の付け方なんて分からないですし、自分の基準を人に開示することなくしかも匿名で星を示さないといけないなんて難しすぎてやる意義も分からない上に興味ないので。
和と洋とか、現代はいくら何でも分けて考えすぎだと思いますね
地球と火星を比較して地球の特徴に気付くこともあるかもしれないですけど、何もかも火星と比較しても仕方がないですし、大体結局所詮人類、似た者同士だから比べたくなるわけで、本当に何かを知りたいと思い立った時の方法論的な意味合いよりも、分けて考えたいという感情に重きを置きすぎだと思うですよ。こういう研究方法は、まぁ売れるから和とか日本人とか付けてあるんでしょうが、この10年くらいずっと上方置換法しかしてないようなものなんで、もういいんじゃないかと思いますけどね。学術的にこの方法で、まだ他よりも巨大な富が発見できるという予算があるんですかね。時々はこういう内向的なのもいいですけどね、時々は純文学も読もうみたいな。
もしくはかつてのテーブルマナーみたいなもので50歳くらいになると、多くの個人がマナーのようなものを求めるようになり、現在ではその世代の人たちのテーブルマナーのようなあってもなくてもいいような共通概念にこういうものが大受けしているということなのかなとも思いますけど、何か受け皿が欲しいんでしょうね個人心理として。結局、個人のことを分かってない人がこういうのにばかり手を出しているような印象を受けてしまいますが、他世代からすると。ロッテンマイヤーさんみたいなものですかね、そういう人は数が実際に多いかというよりも声が大きいので
まあ、それだけですね。星の数は適当です。個人的にはもう少しこういう本が静かに読める世の中になればいいなと私は思います。テーブルマナーにうるさい人が沢山いる世の中で読むテーブルマナー本ほど嫌なものはないですからね。
最後になりますが、星の付け方なんて分からないですし、自分の基準を人に開示することなくしかも匿名で星を示さないといけないなんて難しすぎてやる意義も分からない上に興味ないので。
2009年7月28日に日本でレビュー済み
日本が明治になり、古来伝統の「陰翳の文化」を差し置いて、西洋化(アメリカ化)してしまい、郷愁のように「和」というものをふり返るにいすぎにいなら、はたして「和とはみじめなもの」なのか、と問いかけることから本書は語り始める。
蔑まれた「倭」から「和」へ、日本の国家意識が移行した。「和らぐ国」日本である。和議・和解、異質のものが相容れる調和の取れた和国である。異質の共存、取り合わせを楽しむ文化である。「古池や/蛙飛こむ水のおと」は次元の異なるものが互いに調和、共存したものに心地よさを感じている。更には、「間(ま)の文化」の代表として、連句文芸を挙げている。『徒然草』は「余白の大事さ」を説いているとみている。『万葉集』は漢字を受容して和歌を書くことを始めた。
今後、「和の可能性」を模索していかなければならないし、日本は元来「異質のものを共存させること」を本意とする国である。一神教同士相対立する世界に思いを馳せると、多神を認める日本の「和の思想」の果たす役割は大きい。
蔑まれた「倭」から「和」へ、日本の国家意識が移行した。「和らぐ国」日本である。和議・和解、異質のものが相容れる調和の取れた和国である。異質の共存、取り合わせを楽しむ文化である。「古池や/蛙飛こむ水のおと」は次元の異なるものが互いに調和、共存したものに心地よさを感じている。更には、「間(ま)の文化」の代表として、連句文芸を挙げている。『徒然草』は「余白の大事さ」を説いているとみている。『万葉集』は漢字を受容して和歌を書くことを始めた。
今後、「和の可能性」を模索していかなければならないし、日本は元来「異質のものを共存させること」を本意とする国である。一神教同士相対立する世界に思いを馳せると、多神を認める日本の「和の思想」の果たす役割は大きい。
2009年9月30日に日本でレビュー済み
人と人の間を適切に取るには、それぞれの違いを理解したり、それぞれの良さを引き出すことが求められます。和洋折衷という言葉がありますが、日本風のものと西洋風のものの長所を活かす、このバランス感覚こそが「和」であり「間」だと感じました。
2013年6月10日に日本でレビュー済み
芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水のおと」この句の解釈。
古池にカエルが飛び込んだ、というような意味とばかり思っていたが、現実にある古池ではないらしい。どこからか聞こえてきたカエルの飛び込む音。その頭に芭蕉は精神的なイメージとして冠したらしい。実際の音とイメージの取り合わせは蕉風のセールスポイントとなった。
俳句の技巧として「取り合わせ」は学校で教わったりする。しかし、その実際の組み合わせは異質のもの同士らしい。近似の取り合わせは元気がない。まるで違う取り合わせこそ元気さを表している。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」で西洋のものと和風のものとの組み合わせにジレンマをきたしていたらしい。そして長谷川はその「和風のもの」とはなにか、とつっこんでいく。
「古池」に次いで、二つ目は「和」とは何か、ということだ。谷崎が悩んだ和風のものとは、例えば和服とか和食とかというものだったらしい。この言葉は明治以後、洋風に対する概念として生まれたものらしい。江戸時代までは逆に、洋風のものを「南蛮渡来」とかいっていた。西洋のものに対して、日本人はひどく劣等感を持ったらしい。和について劣等感を持ち、やがて歪んだ優越意識に変わっていった。
この「和」風なる歪んだものではなく、本来の「和」は、何もない小さな島国で活力を得るための知恵、異質のものをおおいに取り込み組み合わせ、変容させていく力なるものがそれなのだ、という。
日本の文化を大切にするために、和風の生活様式を復活させる、というのは小さなことなのだ。むしろ和の精神とはダイナミックに外来の文化を取り込んで発展させることだったんだ。
では、なぜ和の知恵が生まれたのか。日本は暑くて蒸し暑い。サラッとすることが肝要で、そのためにはモノとモノとの間には「間」を置いて風通しをよくするものだ。こうすることよって異質なものとが共存できるのだ。
日本文化論とすれば、ややもの足りない、ぎこちない。でも、さすが俳人だけあって、俳論的には目からウロコのようなダイナミズムが楽しめました。
「和の思想」というより「和の精神」がよかったなあ。巻末近くになって、太平洋戦争前夜に偏狭なナショナリズムから悪用されたことが述べられていたので、それをもって「思想」としたのだろうが、そうするにはシロウトっぽいんです。やっぱり俳人の文という感じです。
古池にカエルが飛び込んだ、というような意味とばかり思っていたが、現実にある古池ではないらしい。どこからか聞こえてきたカエルの飛び込む音。その頭に芭蕉は精神的なイメージとして冠したらしい。実際の音とイメージの取り合わせは蕉風のセールスポイントとなった。
俳句の技巧として「取り合わせ」は学校で教わったりする。しかし、その実際の組み合わせは異質のもの同士らしい。近似の取り合わせは元気がない。まるで違う取り合わせこそ元気さを表している。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」で西洋のものと和風のものとの組み合わせにジレンマをきたしていたらしい。そして長谷川はその「和風のもの」とはなにか、とつっこんでいく。
「古池」に次いで、二つ目は「和」とは何か、ということだ。谷崎が悩んだ和風のものとは、例えば和服とか和食とかというものだったらしい。この言葉は明治以後、洋風に対する概念として生まれたものらしい。江戸時代までは逆に、洋風のものを「南蛮渡来」とかいっていた。西洋のものに対して、日本人はひどく劣等感を持ったらしい。和について劣等感を持ち、やがて歪んだ優越意識に変わっていった。
この「和」風なる歪んだものではなく、本来の「和」は、何もない小さな島国で活力を得るための知恵、異質のものをおおいに取り込み組み合わせ、変容させていく力なるものがそれなのだ、という。
日本の文化を大切にするために、和風の生活様式を復活させる、というのは小さなことなのだ。むしろ和の精神とはダイナミックに外来の文化を取り込んで発展させることだったんだ。
では、なぜ和の知恵が生まれたのか。日本は暑くて蒸し暑い。サラッとすることが肝要で、そのためにはモノとモノとの間には「間」を置いて風通しをよくするものだ。こうすることよって異質なものとが共存できるのだ。
日本文化論とすれば、ややもの足りない、ぎこちない。でも、さすが俳人だけあって、俳論的には目からウロコのようなダイナミズムが楽しめました。
「和の思想」というより「和の精神」がよかったなあ。巻末近くになって、太平洋戦争前夜に偏狭なナショナリズムから悪用されたことが述べられていたので、それをもって「思想」としたのだろうが、そうするにはシロウトっぽいんです。やっぱり俳人の文という感じです。