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日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで (中公新書 2427) 新書 – 2017/3/21
- 本の長さ290ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2017/3/21
- 寸法11 x 1.3 x 17.4 cm
- ISBN-104121024273
- ISBN-13978-4121024275
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商品の説明
メディア掲載レビューほか
日本のノンフィクションはどう生まれ、どこへ行くのか
「徹底的に取材しているわけでもない」
さるノンフィクション賞の最終候補作に対し、選考委員が痛烈な批判を加える――。本書は冒頭からスリリングだ。議論の推移を読むにつれ、読者の頭にはある疑問が浮かぶ。そもそもノンフィクションとは一体何なのか?
「執筆の動機はそこにあるんです。ノンフィクションで事実を相手にする時、得てして事実さえ伝えればいいんだという単純な話になってしまいがち。いかに伝えるかという方法論の視点が抜け落ちていて惜しいなあと思っていました」
日本のノンフィクションの黎明期から現代に至るまでの変遷、変質が方法論という明確な物差しで解き明かされる。わが国のノンフィクションの“成立"が1970年代だと喝破するあたりは、本書の読みどころのひとつでもある。
「団塊の世代が大きな担い手だったというのもノンフィクション史の大きな特徴です。政治の季節を知る彼らにとってノンフィクションは一種の自己表現の『物語』でもあった。ところが時代が下るとファクトと読者が直に結びつくことを理想とするジャーナリズム観がノンフィクションにも及び、本来その間をつなぐはずの書き手の透明化が求められているように感じています」
そんな現代の気分を吹き飛ばすような、大宅壮一と沢木耕太郎が放つ強烈な個性が印象的だ。
「大宅はノンフィクションの時代を用意した人物として重要です。書き始めるときはそれほど意識していなかったんですが、大宅に触れる分量が自然と多くなっていって評伝的な性格も多少ある本になりましたね。一方の沢木は方法としてのノンフィクションというものにかなり意識的。ノンフィクションが包含する『物語性』をよく分かっている人だけに読者を獲得できている。2人の存在があったからこそ、この本が書けたという指摘は当たっているかもしれません」
大労作だけに新書版のボリュームが惜しまれる節もある。武田さんの案内でもっと多くの名ノンフィクションに触れたいというワガママな気持ちも出てくる。
「過去には名作を紹介したブックガイドもあるのですが、取り上げられている作品が今の出版事情で手に入りづらい面と、事実を扱うだけに事件そのものが風化してしまう悩みがありますよね。でも方法の議論はできるはず。個々の作品論については、いつか是非やりたいと考えています」
評者:「週刊文春」編集部
(週刊文春 2017.06.01号掲載)登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2017/3/21)
- 発売日 : 2017/3/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 290ページ
- ISBN-10 : 4121024273
- ISBN-13 : 978-4121024275
- 寸法 : 11 x 1.3 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 342,273位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,571位中公新書
- - 43,723位社会・政治 (本)
- - 63,623位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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つまり、沢木によってだいたい方法論は出尽くしたので、それ以降は
どうやって興味をひくネタを探すかとか、ムーブメントに参加するかしかないというわけです。
これは、沢木のアイデアの元ネタである、アメリカのニュージャーナリズムにおいても
同様でしょう。
今年の1月に刊行されたゲイ・タリーズの『覗くモーテル 観察日誌』(文藝春秋)。
昨年のうちに原書で読みましたが、金も地位もあるのに、下世話なものに興味津々なゲイ・タリーズの
好奇心は魅力的ではあるものの、特に目新しい手法を用いているわけではありません。
というわけで、本書の最終章ではケータイ小説を扱ったり、ついには古市憲寿氏や開沼博氏を取り上げて
アカデミックジャーナリズムなるものを紹介します。
様々意見はあるでしょうが、彼らの本というのはどこかエリートの視点。
こんなものが、ノンフィクションの主流になったら、とんでもない……。
結局のところ、本書はノンフィクションの書き手への叱咤激励なのではないかと思いました。
ノンフィクション作品史のような作品紹介ものではありません。「世界ノンフィクション全集」の作品一覧は巻末にありますが、「大宅壮一ノンフィクション賞」の作品一覧はありません。
本書は、ノンフィクションの成立史で、1970年代までが中心的内容となっています。
アンドレ・ジイドの『ソヴィエト旅行記』から、海外の影響を受けて、ルポルタージュという表現形式を自覚した日本は、出来事の推移を追って報告する物語性や統一性のある文学に気づきます。
火野葦平『土と兵隊』や石川達三『生きている兵隊』など従軍報告として、まずルポルタージュは出現しますが、そこは軍の影響による物語性の強いルポルタージュでした。
その後、戦後民主化革命のルポ、マルクス主義の下のルポ、米軍批判的なルポと、価値観の強い見方からの深く鋭いリアリズム追求が強くなります。
またジャーナリズム系の週刊誌のルポルタージュも増えますが、物語性の強い商業主義的ルポとなります。
同時期、1960年、『世界ノンフィクション全集』が筑摩書房から刊行。ノンフィクションという自伝・伝記・旅行記・探検記・手記・日記・人類学的作品をも含む雑多ジャンル集合のノンフィクション概念が形成されていきます。ここでは記録性が重視されていましたが、徐々に物語性の重要性も強調され出します。
その後、1970年、大宅壮一ノンフィクション賞ができ、1979年沢木耕太郎『テロルの決算』で日本におけるニュージャーナリズムの作品が確立。ノンフィクションが一つの創作カテゴリとして自立します。日本のノンフィクションは、その後、社会学というより、文学として構築され、海外のリテラシージャーナリズムやアカデミック・ジャーナリズムという記録の高い形態から乖離します。
【感想】
ノンフィクションの成立は、なかなか右往左往していて、記録性か物語性かを揺れ動いていると感じます。
ノンフィクションが現実を描写し抉りとるものとしたら、文学・社会学・ドキュメンタリー映画・テレビ・週刊誌・ジャーナリズム・新聞などと様々な分野が行為者として関わってくるのは分かりますが、あまりにも広げすぎて、論旨が追いづらいです。二章後半や三章や五章など削って短くして、全体のまとまりが欲しくなります。
しかし、文学史とは違った視点があって、フィクションとノンフィクションのあり方に対して、新しい知見に開かれます。
私は、“ノン・フィクション”(=フィクションではないもの)を好んで読むが、正直なところ、ノンフィクション、ルポルタージュ、ドキュメンタリーといった言葉、ジャンルに何らかの明示的な違いがあるのか、長く疑問に思ってきた。
著者は、「ノンフィクションの成立」とは、「ジャーナリズムが単独で成立するひとつの作品としての骨格を備えたこと」、「出来事の発生から帰結までを示す物語の文体を持ったこと」といい、その経緯を“ノンフィクション”という言葉が今のように使われるようになった1970年代以前に遡り、記録文学、ルポルタージュ、ジャーナリズムという変遷をたどりつつ、ノンフィクションという概念がどのように成立したかを明らかにしている。
また、私は、本書の「はじめに」で取り上げられている、2012年の第34回講談社ノンフィクション賞選考会で展開された「石井光太論争」(選考委員の野村進氏が、石井氏が「ノンフィクション」というジャンルに相応しい取材をしているのかという疑問を呈した)について大いに関心を持っていたし、同じく「はじめに」で取り上げられている、『空白の5マイル』で開高健ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した角幡唯介が『探検家、36歳の憂鬱』で語る、「ノンフィクションを成立させる場合の本当の難しさは、実は文章を書く時にノンフィクション性を成立させることにあるのではなく、むしろ行為をしている時にノンフィクション性を成立させることにあるのだ」という鋭い指摘に、かつて目から鱗が落ちたのであるが、本書では、ノンフィクションの成り立ちの過程の中で、そうした論点の捉え方についても触れていく。
更に、知命を過ぎた、旅+ノンフィクション好きにとってのヒーローである沢木耕太郎についても、1979年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『テロルの決算』を、「全く新しいノンフィクションの幕開けを実感させる内容」、「日本語で書かれたニュージャーナリズムの傑作」と評価し、沢木氏が開拓し、試みた手法、及び「ここにノンフィクションは自立し、ノンフィクション作家という物書きのジャンルが確立された」という、日本のノンフィクション史における位置付けを詳しく分析している。
かなり詳しい通史となっており、関心の薄れる部分もなくはないが、ノンフィクション好きには一読の意味のある一冊と思う。
(2017年4月了)
さらにノンフィクションの原点に戻った、衝撃的作品が多く現れてほしい。
本書は、戦中の記録文学から、
戦後の大宅壮一らの社会派ルポルタージュ、
梶山季之らの週刊誌ジャーナリズム、
70年代の沢木耕太郎、冒険家の角幡唯介まで。
初の日本ノンフィクション史として、
200冊を越す書籍、雑誌を紐解き、
執筆に7年の歳月をかけた労作だった。
私が好きなもの。
良いノンフィクションと、
酔いノミニケーション。
全7章で構成されていて、沢木耕太郎さんが6章で登場し、「なんとなく、ケータイ小説まで」と題された最終章では開沼博さんやシノドスといったアカデミック・ジャーナリズムが紹介されており、そのあたりを地続きで考えたことがなかったので、蒙を啓かれた新鮮さが心地よい一冊でした。また、「はじめに」で触れられている石井光太さんの一件と、「人称、遠近法、叙述」も、自分が石井氏の著作から距離を置くようになった原因と重なる部分があり、たいへん興味深かったです。
私の理解が不足しているのか?