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部落解放同盟「糾弾」史: メディアと差別表現 (ちくま新書 1131) 新書 – 2015/6/8
小林 健治
(著)
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悪意をむき出しにした差別事件がくり返され、いっそう激しさを増している。部落解放運動の生命線である糾弾の意義を問い直し、反…
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2015/6/8
- 寸法11 x 1.1 x 17.5 cm
- ISBN-104480068376
- ISBN-13978-4480068378
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2015/6/8)
- 発売日 : 2015/6/8
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 4480068376
- ISBN-13 : 978-4480068378
- 寸法 : 11 x 1.1 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 667,099位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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- - 5,391位社会一般関連書籍
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上位レビュー、対象国: 日本
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2015年7月6日に日本でレビュー済み
この本を読んでみると、読む前の先入観とは違うということに気づかされました。この本の帯には「反差別運動の再生へ怒りの抗議『糾弾』意義を問いなおす」とありました。ということで、現在の解放同盟について批判的に書かれている本かなという先入観をもってこの本を手にしたわけです。
確かに、現在の解放運動には批判的にかかれていますが、その批判というのは、「今の解放運動は手ぬるい!もっとしっかりしろ!!」というこららしいのです。このことはこの本の第1章に述べられています。そして次の章がからは、解放運動はどのように行われてきたのか、その糾弾の歴史について書かれています。特に、有名作家たちが発言した言葉への糾弾の歴史について叙述は迫力満点で、大変読み応えがあります。しかも、なんでこんな細かい記述や発言に噛みつき、訂正を求めないといけないのか。ということもわかりやすく書かれています。
差別をうけていない人にとっては全く、何も感じない表現であっても、その発言、その記述の背景には根強い差別的意味が含まれている。だから、一見細かいことであっても、きちんと糾弾していかないといけない。筆者はそう言っているのだと思います。
差別とはなにか、解放運動は何かをわかりやすく、しかも筆者の情熱も感じられる本だと思います。
確かに、現在の解放運動には批判的にかかれていますが、その批判というのは、「今の解放運動は手ぬるい!もっとしっかりしろ!!」というこららしいのです。このことはこの本の第1章に述べられています。そして次の章がからは、解放運動はどのように行われてきたのか、その糾弾の歴史について書かれています。特に、有名作家たちが発言した言葉への糾弾の歴史について叙述は迫力満点で、大変読み応えがあります。しかも、なんでこんな細かい記述や発言に噛みつき、訂正を求めないといけないのか。ということもわかりやすく書かれています。
差別をうけていない人にとっては全く、何も感じない表現であっても、その発言、その記述の背景には根強い差別的意味が含まれている。だから、一見細かいことであっても、きちんと糾弾していかないといけない。筆者はそう言っているのだと思います。
差別とはなにか、解放運動は何かをわかりやすく、しかも筆者の情熱も感じられる本だと思います。
2015年12月1日に日本でレビュー済み
私自身、解放同盟は、労働貴族的に差別で飯を食っている団体との感触を持っている。
確かに数十年前の解放運動時代であれば、住民らと共に拳を振り上げ闘ってきただあろうが、同和対策法に基づく助成金などによって、住居整備や免許取得費用・教育費用助成等が整備されて以後、闘う目標を失い、法廃止以後、その存在価値は薄れているにも関わらず、新しい差別に対しては鈍感であり、目の前の大きな問題よりもいつまでも同和差別に固執し、暇を持て余しながらも専従としてのルーティンをこなしている印象だ。
現にヘイトクライムやLGBT、性産業労働者、夫婦別姓等の問題についての現場で、解放同盟関係者を見る事はほぼない。
本書では地方支部がヘイトに向き合っているとも書くが、どこの支部がどのように姿を現しているのかは書かれないので、確かめようがない。
事例については、確かに多く書かれる。
だが帰結の書き方がおろそかでもあり、「特殊部落」や「士農工商○○」について、著者は言葉狩りではなく、時代とともに変化する社会意識(社会的価値感)の中に判断基準があると言え、被差別者の主観的告発は社会に受け入れられる事によって初めて客観性を持つ、としているが、その解釈によっても言葉狩りではないのかとの疑問は消えなかった。
角岡伸彦氏は、ブログ「五十の手習い」2015.6.27付で、こう書く。
糾弾は部落解放運動の生命線と主張し、部落差別を法と制度によってなくしていくことに批判的である著者が、ヘイトスピーチに対する法規制を訴えるのは、整合性がないように思える。
人種・民族差別と部落差別は別なのだろうか。
伝聞を前提に論を進めているのも気になる。政治家(麻生太郎氏)の差別発言(評者注:2009年1月16日付「ニューヨーク・タイムズ」紙の1面に載った、亀井久興衆院議員からの取材に基づく、小渕内閣で官房長官を務めた野中広務氏について、次のリーダーを論議する2001年当時の自民党の秘密会議(麻生派閥の会合)において、麻生太郎・現首相が「ああいう(部落出身の)人たちに日本の舵取りを任せて本当にいいんですか?」と声高に発言して潰した経緯についての記事)を、解放同盟幹部が抗議せずに手打ちしたとして「権力に対する糾弾を回避するようになった」と断じている。
だが手打ちはあくまでも「噂」や「ささやかれている」だけであって、根拠はない。
書くなら裏を取るべきだし、取れなかったら書くべきではない。
ましてや権力云々まで展開するには無理があるのではないだろうか。
手打ちに関しては「重要な問題ではない」と書いてあるかと思えば、別のところでは「歴史的汚点」と糾弾している。
視点がぶれているのである。
(引用終わり)
糾弾が、差別を容認し、放置している社会に対する異議申立てであり、差別する者、差別を許している社会の変革をめざす闘いであり、糾弾を通じて、被差別者のおかれている社会的な立場を自覚的に認識し、自己変革をめざすものであるとの説明には納得する。
であっても、本書が思い出話ではなく、現実世界とリンクし、新しい差別をなくす方向性を示せたわけではない。
解放同盟役員の肩書きで資料としてでなく、現在に踏み込んで書くなら、現中央本部の権力への糾弾回避な体たらくに対する批判だけでなく、そこを疎かにしたり、落としては出版の意味合いが薄れたと残念である。
確かに数十年前の解放運動時代であれば、住民らと共に拳を振り上げ闘ってきただあろうが、同和対策法に基づく助成金などによって、住居整備や免許取得費用・教育費用助成等が整備されて以後、闘う目標を失い、法廃止以後、その存在価値は薄れているにも関わらず、新しい差別に対しては鈍感であり、目の前の大きな問題よりもいつまでも同和差別に固執し、暇を持て余しながらも専従としてのルーティンをこなしている印象だ。
現にヘイトクライムやLGBT、性産業労働者、夫婦別姓等の問題についての現場で、解放同盟関係者を見る事はほぼない。
本書では地方支部がヘイトに向き合っているとも書くが、どこの支部がどのように姿を現しているのかは書かれないので、確かめようがない。
事例については、確かに多く書かれる。
だが帰結の書き方がおろそかでもあり、「特殊部落」や「士農工商○○」について、著者は言葉狩りではなく、時代とともに変化する社会意識(社会的価値感)の中に判断基準があると言え、被差別者の主観的告発は社会に受け入れられる事によって初めて客観性を持つ、としているが、その解釈によっても言葉狩りではないのかとの疑問は消えなかった。
角岡伸彦氏は、ブログ「五十の手習い」2015.6.27付で、こう書く。
糾弾は部落解放運動の生命線と主張し、部落差別を法と制度によってなくしていくことに批判的である著者が、ヘイトスピーチに対する法規制を訴えるのは、整合性がないように思える。
人種・民族差別と部落差別は別なのだろうか。
伝聞を前提に論を進めているのも気になる。政治家(麻生太郎氏)の差別発言(評者注:2009年1月16日付「ニューヨーク・タイムズ」紙の1面に載った、亀井久興衆院議員からの取材に基づく、小渕内閣で官房長官を務めた野中広務氏について、次のリーダーを論議する2001年当時の自民党の秘密会議(麻生派閥の会合)において、麻生太郎・現首相が「ああいう(部落出身の)人たちに日本の舵取りを任せて本当にいいんですか?」と声高に発言して潰した経緯についての記事)を、解放同盟幹部が抗議せずに手打ちしたとして「権力に対する糾弾を回避するようになった」と断じている。
だが手打ちはあくまでも「噂」や「ささやかれている」だけであって、根拠はない。
書くなら裏を取るべきだし、取れなかったら書くべきではない。
ましてや権力云々まで展開するには無理があるのではないだろうか。
手打ちに関しては「重要な問題ではない」と書いてあるかと思えば、別のところでは「歴史的汚点」と糾弾している。
視点がぶれているのである。
(引用終わり)
糾弾が、差別を容認し、放置している社会に対する異議申立てであり、差別する者、差別を許している社会の変革をめざす闘いであり、糾弾を通じて、被差別者のおかれている社会的な立場を自覚的に認識し、自己変革をめざすものであるとの説明には納得する。
であっても、本書が思い出話ではなく、現実世界とリンクし、新しい差別をなくす方向性を示せたわけではない。
解放同盟役員の肩書きで資料としてでなく、現在に踏み込んで書くなら、現中央本部の権力への糾弾回避な体たらくに対する批判だけでなく、そこを疎かにしたり、落としては出版の意味合いが薄れたと残念である。
2016年7月29日に日本でレビュー済み
メディアにおける「差別事件」糾弾の歴史を、あくまで部落解放同盟の立場から綴った一冊。
読んでいて首を傾げた点は多々あれど、すべて列挙すると切りがないので2点だけ指摘しておく。
(1)著者は125-127頁で矢田事件や八鹿高校事件に対する司法の判断を紹介しているが、
確定判決を全文きちんと読めばわかるように、いずれの事件でも裁判所は最終的に「糾弾権」を否定している。
にもかかわらず、著者は部落解放同盟に都合のいい部分だけを切り取って判決書の中から引用し、
司法が「糾弾権」を是認したと言い張っている。
もう何十年も繰り返されている、部落解放同盟のいつものデマゴギー、いつものプロパガンダである。
読んでいて「ああ、またか」とうんざりした。もうとっくに破綻した主張なのに、実にしつこいのである。
俗に「嘘も百回言えば本当になる」という。
こういう書き方はペテンではないのか。事情をよく知らない読者なら、あっさり騙されるだろう。
(2)著者は部落解放同盟から除名された身だが、著者略歴にも本文にもそのことを記していない。
除名された理由は、「連載差別表現」第177回で自ら明かしているように横領行為である。
事実関係については係争中であり、ここでは断定しないが、少なくとも中央本部は横領行為と認定している。
それをなぜ本書の中で書かなかったのか。
著者は、やたらに中央本部(特に委員長の組坂)を批判している。
除名の経緯を知らない読者なら、中央本部への批判が純然たる公憤であるかのように誤信するだろう。
それどころか、著者が現役の同盟員であるかのようにさえ誤信するだろう。
そのように読者を欺く書き方が、正しいと言えるのか。
もはや同盟員ではない人間が、なぜ部落解放同盟の看板を使って商売をしているのか。
本書は一貫して糾弾する側の言い分で書かれている。
しかし物事は、さまざまな視点から見ることが重要である。
部落解放同盟に糾弾される立場から書かれた本として、読者諸兄には山中央(江上茂)の本を併せて読むことをお勧めする。
・『ゆたかな日本語をめざして「差別用語」』(汐文社、1975年)用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会名義
・『新・差別用語』(汐文社、1992年)
・『「差別」とメディアの自己規制』(部落問題研究所、1995年)
・『差別用語を見直す―マスコミ界・差別用語最前線』(花伝社、2008年)江上茂名義
小林と山中と、どちらが正しいとも自分は言わない。
一方的な宣伝を鵜呑みにするのではなく、
二つの相反する視点から書かれた本を読み比べ、あとは自分の頭で考えること、
それをお勧めしたい。
読んでいて首を傾げた点は多々あれど、すべて列挙すると切りがないので2点だけ指摘しておく。
(1)著者は125-127頁で矢田事件や八鹿高校事件に対する司法の判断を紹介しているが、
確定判決を全文きちんと読めばわかるように、いずれの事件でも裁判所は最終的に「糾弾権」を否定している。
にもかかわらず、著者は部落解放同盟に都合のいい部分だけを切り取って判決書の中から引用し、
司法が「糾弾権」を是認したと言い張っている。
もう何十年も繰り返されている、部落解放同盟のいつものデマゴギー、いつものプロパガンダである。
読んでいて「ああ、またか」とうんざりした。もうとっくに破綻した主張なのに、実にしつこいのである。
俗に「嘘も百回言えば本当になる」という。
こういう書き方はペテンではないのか。事情をよく知らない読者なら、あっさり騙されるだろう。
(2)著者は部落解放同盟から除名された身だが、著者略歴にも本文にもそのことを記していない。
除名された理由は、「連載差別表現」第177回で自ら明かしているように横領行為である。
事実関係については係争中であり、ここでは断定しないが、少なくとも中央本部は横領行為と認定している。
それをなぜ本書の中で書かなかったのか。
著者は、やたらに中央本部(特に委員長の組坂)を批判している。
除名の経緯を知らない読者なら、中央本部への批判が純然たる公憤であるかのように誤信するだろう。
それどころか、著者が現役の同盟員であるかのようにさえ誤信するだろう。
そのように読者を欺く書き方が、正しいと言えるのか。
もはや同盟員ではない人間が、なぜ部落解放同盟の看板を使って商売をしているのか。
本書は一貫して糾弾する側の言い分で書かれている。
しかし物事は、さまざまな視点から見ることが重要である。
部落解放同盟に糾弾される立場から書かれた本として、読者諸兄には山中央(江上茂)の本を併せて読むことをお勧めする。
・『ゆたかな日本語をめざして「差別用語」』(汐文社、1975年)用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会名義
・『新・差別用語』(汐文社、1992年)
・『「差別」とメディアの自己規制』(部落問題研究所、1995年)
・『差別用語を見直す―マスコミ界・差別用語最前線』(花伝社、2008年)江上茂名義
小林と山中と、どちらが正しいとも自分は言わない。
一方的な宣伝を鵜呑みにするのではなく、
二つの相反する視点から書かれた本を読み比べ、あとは自分の頭で考えること、
それをお勧めしたい。
2015年6月9日に日本でレビュー済み
差別問題を論じるには、主観の他に客観が必要となるべきですがこの本は主観の固まりであり独善的な意見をこれでもかと書き連ねます。企業、学者の真摯な意見も一方的に切り捨てる。
活動家の文章に良くある作品なのか。
ただ、冒頭の柄谷行人の「国家権力が強権化したのは、部落解放同盟が弱くなったからだ」の一文は刺さる…
活動家の文章に良くある作品なのか。
ただ、冒頭の柄谷行人の「国家権力が強権化したのは、部落解放同盟が弱くなったからだ」の一文は刺さる…
2015年7月5日に日本でレビュー済み
東京で生活しているとどうもこの構図は見えません。時々この種の作品を読んで、現状へのわずかな感触を得ようとするのですが、この狙いからするとこの作品はちょっと場違いだったようです。著者が語る現代の部分からは、もはや「部落解放同盟」としての特徴は失われ、タイトル通り過去の「糾弾」史への追憶、きつい言い方をさせてもらえばノスタルジーとなっているのです。
それも無理はありません。もはや現代では、このような構図にこだわっているだけの余裕が社会から失われています。微妙なしかし当事者には残酷な差異の抽出と根絶におのれを突き動かす情熱はなえていきます。いい意味でも悪い意味でも「密度」のある人間関係の場(地域社会)が消えてしまったのでしょう。全国規模での地方都市の凋落もこれに拍車をかけており、もはや強固な差別感情の無意識のうちの再生産を可能ならしめた実感の感触が驚くべきスピードで失われているようです。この糾弾史でも繰り返し対象にされるメディア(つまり新聞、テレビ、本)なども急速にその影響力を落としており、差別の反映もしくはtransmission beltとしてのメディアの機能が消え始めているのです。
同盟側も、従来のような形の「糾弾」を続けていても、実感の喪失とコンプライアンスによって作り出された幾層にも渡る豆腐の角のような防護幕にぶつかっては跳ね返されるだけで、そこではもはや運動がリアリティを持てないのです。結果としてはこの運動も、社会を退場した平均年齢の高い人々が集い昔を懐かしむ集合体になってしまったのでしょうか。時代への立脚点が無くなった運動。それは当事者にとっては悲しい現実ですが、逆説的な言い方をすれば、「存在意義がもはや無くなった」というのはこの場合は一番喜ばしいことなのかもしれません。
回想の部分である60年代ー80年代までの歴史は当時の時代の雰囲気を醸し出して、興味深い当事者の回想がたどられます。でも本書では回想は90年代前半で止まってしまいます。それ以降は、対象が無限定に拡散され、「新時代の差別」という形で、すべての現象(hate speechもふくめて)を包含する形で取り扱われており、前半にみられた、部落に絞られた糾弾の歴史の叙述は影をひそめます。
著者の基本的な認識は「部落民に、労働市場の底辺を支えさせることによって、一般労働者の低賃金低生活のしずめとしての役割を果たさせている」というマルクス主義に依拠した古色蒼然としたものです。これはこれで一つの現実理解へのテンプレートでしょうが、このような「便利」な図式がいまだに本書で繰り返されているというのは悲しい姿です。
それも無理はありません。もはや現代では、このような構図にこだわっているだけの余裕が社会から失われています。微妙なしかし当事者には残酷な差異の抽出と根絶におのれを突き動かす情熱はなえていきます。いい意味でも悪い意味でも「密度」のある人間関係の場(地域社会)が消えてしまったのでしょう。全国規模での地方都市の凋落もこれに拍車をかけており、もはや強固な差別感情の無意識のうちの再生産を可能ならしめた実感の感触が驚くべきスピードで失われているようです。この糾弾史でも繰り返し対象にされるメディア(つまり新聞、テレビ、本)なども急速にその影響力を落としており、差別の反映もしくはtransmission beltとしてのメディアの機能が消え始めているのです。
同盟側も、従来のような形の「糾弾」を続けていても、実感の喪失とコンプライアンスによって作り出された幾層にも渡る豆腐の角のような防護幕にぶつかっては跳ね返されるだけで、そこではもはや運動がリアリティを持てないのです。結果としてはこの運動も、社会を退場した平均年齢の高い人々が集い昔を懐かしむ集合体になってしまったのでしょうか。時代への立脚点が無くなった運動。それは当事者にとっては悲しい現実ですが、逆説的な言い方をすれば、「存在意義がもはや無くなった」というのはこの場合は一番喜ばしいことなのかもしれません。
回想の部分である60年代ー80年代までの歴史は当時の時代の雰囲気を醸し出して、興味深い当事者の回想がたどられます。でも本書では回想は90年代前半で止まってしまいます。それ以降は、対象が無限定に拡散され、「新時代の差別」という形で、すべての現象(hate speechもふくめて)を包含する形で取り扱われており、前半にみられた、部落に絞られた糾弾の歴史の叙述は影をひそめます。
著者の基本的な認識は「部落民に、労働市場の底辺を支えさせることによって、一般労働者の低賃金低生活のしずめとしての役割を果たさせている」というマルクス主義に依拠した古色蒼然としたものです。これはこれで一つの現実理解へのテンプレートでしょうが、このような「便利」な図式がいまだに本書で繰り返されているというのは悲しい姿です。
2015年9月6日に日本でレビュー済み
繰り返し説かれる差別表現の定義。難しいです。一連の糾弾事例が出ているのは、参考になります。