現在の日本を見ていて、このまま対米従属し続けるわけには行かない、健全なナショナリズムが必要だと考え、本書も読むこととなった。第3章を中心に日本における「パトリ」としての文化的アイデンティティーに関するさまざまな解説には著者の博識さが存分に反映されていて大変勉強になった。たとえば、太古の日本に「伊勢系民族」と「出雲系民族」がいて(そのどちらもが「外来」というのも重要だが)その対立・融合で大和民族が形成されたとの説明はそのとおりではないかと思った。「ナショナリズム」を考えるうえで必要な知識が人文系のそれであることを改めて知った次第である。
ただ、たとえば中台のGDPがほぼ同じであった頃に書かれていたこともあり、出版された2002年と現在との時間差も強く感じる結論となっている。本書の結論はせんじ詰めれば「国が必要であり続ける限りナショナル・アイデンティティーが不可欠」となると思われるが、少なくともそのひとつの例として挙げられている「シンガポールはもたないだろう」との予想は当たらないと私は感じた。一昨年に学会でシンガポールを再訪し、少なくとも3つの民族のバランスをとるのに細心の工夫がされ、その「バランス」こそが国家のアイデンティティーとなっていることを知ったからである。ついでに言うと、大国間紛争に巻き込まれないことを目的にベルギーやスイスが敢えて3民族で国家を構成しているというのにも注目されたいと思った。「国のかたち」にそれなりの十分な正当性さえあれば、複数民族国家も十分に成立する。ヨーロッパのような「国民国家」が一般的なエリアでもそうだというのが重要である。
しかし、そう考えれば考えるほど、世界の圧倒的な諸国が多民族国家である以上、たとえばアジアがヨーロッパの主要国のようにすべて「国民国家」となるものかどうかはさらに疑わしい。「多民族でありつつ単一のアイデンティティーを持つ事はアメリカで実現されつつある」とも著者は言われているので、そのスタイルとなるかも知れないが、そのへんをこそもっと書き込んでもらいたかったと感じた。
なお、この本も含めて多くの「ナショナリズム本」を書評した浅羽通明『ナショナリズム』(ちくま新書)が論じるように、このナショナリズムがどういう局面で必要とされ、どういう局面で必要とされないか、といった歴史的な分析こそしてもらいたかったとも言える。本書でもはしばしでそれに関わる叙述がみられるが、必ずしも議論の整理の基準としてそういう視角が提示されているわけではない。このあたりが「社会科学系」の「ナショナリズム論」との違いなのかも知れないとは感じたが、である。
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民族と国家: グローバル時代を見据えて (PHP新書 202) 新書 – 2002/5/1
松本 健一
(著)
20世紀を特徴づけたネーション(民族・国家・国民)という概念。だが、その終焉を予感させるように、2001年9月11日、米国で同時多発テロが起きた。グローバリズムとパトリオティズム(郷土愛)が台頭する中で、「民族」「国家」の定義も再考を迫られている。
本書では「民族(エスニシティ)」「国家」という言葉の起源を探り、その上で、現代における意味の変容を、オリンピックや湾岸戦争などの具体例をもとに解説。「ナショナリズムとは何か」「民族はフィクションか」「新しい民族は生まれるか」などの根本的な問いに迫っていく。
さらに日本「国家」成立の事情にも言及。「文化的ネーション」としての日本の特徴を示す。
<主な目次>◆民族の歴史はいつ始まったか◆日本文化はいかにして形成されたか◆日本のナショナリズムをどう捉えるか◆パトリオティズムの時代◆民族の生きるかたち
民族・国家のゆくえを深く洞察した、9・11後の「新・世界地図」。
- 本の長さ234ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2002/5/1
- ISBN-104569620272
- ISBN-13978-4569620275
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登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2002/5/1)
- 発売日 : 2002/5/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 234ページ
- ISBN-10 : 4569620272
- ISBN-13 : 978-4569620275
- Amazon 売れ筋ランキング: - 786,802位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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2015年3月19日に日本でレビュー済み
一言での感想:“現状分析は面白いのだが……”
保守派の論客にありがちな、「現状分析は面白いのだが、著者自身の論の展開がイマイチ」という本の典型かと思います。
ところどころに寸鉄人を刺すかのような鋭い指摘があるものの、それは著者の他著で読めるものなので、
本書を購って、読む時間を費やすのは、どうにももったいないように思いました。
北一輝に関する論考で名を挙げた氏らしく、その周辺に関する論考は面白いのですが、
民族と国家=ethnocentrismとnationalismの関係に言及しているところは、
言語の取り扱いも相まって、非常に不明瞭です。
国民国家の論理に言及しつつ、民族の論じ方を問い直したかったのでしょうが、
分量も説得力も欠けており、有意の大学生に満足してもらうにも迫力が足りないように感じます。
じぶん自身としては、松本健一自身は非常に面白い本を書く方だとは思いますが、
本書に、読む時間を費やす価値を見いだせませんでした。
保守派の論客にありがちな、「現状分析は面白いのだが、著者自身の論の展開がイマイチ」という本の典型かと思います。
ところどころに寸鉄人を刺すかのような鋭い指摘があるものの、それは著者の他著で読めるものなので、
本書を購って、読む時間を費やすのは、どうにももったいないように思いました。
北一輝に関する論考で名を挙げた氏らしく、その周辺に関する論考は面白いのですが、
民族と国家=ethnocentrismとnationalismの関係に言及しているところは、
言語の取り扱いも相まって、非常に不明瞭です。
国民国家の論理に言及しつつ、民族の論じ方を問い直したかったのでしょうが、
分量も説得力も欠けており、有意の大学生に満足してもらうにも迫力が足りないように感じます。
じぶん自身としては、松本健一自身は非常に面白い本を書く方だとは思いますが、
本書に、読む時間を費やす価値を見いだせませんでした。
2002年9月22日に日本でレビュー済み
アンダーソン『想像の共同体』に代表される最近の(所謂「左」寄りの)国家論の問題提起を受け,それへの応答が本書の基調をなしている.巷間の保守評論家達が未だに馬鹿の一つ覚えの「国家」「国家」と単純に叫んでいるのと比べると,著者が文筆家として誠実であることは認める.
ただ著者の応答が成功しているかは別の話だ.例えば著者は(特に日本で)民族(エスニシティ)が国民=民族=国家(ネーション)に先行する,と繰り返すが,あまり説得的でない.ネーション・ステイツが「民族」を生んだことと,一度発生した「民族」が国家無しに共同幻想として生き残って行くことを筆者は混同している.
最近の研究が国家の自明性を剥ぎ取り「国家」一辺倒の言説が説得力を持たぬからこそ,著者は「民族」を強調するわけだが,私は,著者流の「民族」の強調は,新たなる「排除の論理」を生むと思う.「国民」を区別するメルクマールは,単に国籍を持っているか否かだけの話で基準は明確だ.対して「民族」を区別するメルクマールは基準が恣意的ならざるを得ない.アメリカに帰化した元日本国籍者,ハーフ,三世代ほど昔に日本に帰化した外国人,アイヌ,沖縄出身者.この中で「普通の日本人」と同じ民族に属するのは誰だろう.必ずしも一義的に決められない.となれば「日本人」石原慎太郎が,ルーツは韓国だが日本で国会議員にまで上り詰めた「日本国籍を持つ」新井将敬を「朝鮮人」と名指ししたように,為政者や差別主義者が「民族」概念を自分の都合でいいように伸縮するしようとするのは目に見えている.
個人的には,本書と,小熊英二『日本人の境界』あたりを併読することを勧めたい.そうすれば本書の「アラ」がよりくっきりと見えてくるだろう.
ただ著者の応答が成功しているかは別の話だ.例えば著者は(特に日本で)民族(エスニシティ)が国民=民族=国家(ネーション)に先行する,と繰り返すが,あまり説得的でない.ネーション・ステイツが「民族」を生んだことと,一度発生した「民族」が国家無しに共同幻想として生き残って行くことを筆者は混同している.
最近の研究が国家の自明性を剥ぎ取り「国家」一辺倒の言説が説得力を持たぬからこそ,著者は「民族」を強調するわけだが,私は,著者流の「民族」の強調は,新たなる「排除の論理」を生むと思う.「国民」を区別するメルクマールは,単に国籍を持っているか否かだけの話で基準は明確だ.対して「民族」を区別するメルクマールは基準が恣意的ならざるを得ない.アメリカに帰化した元日本国籍者,ハーフ,三世代ほど昔に日本に帰化した外国人,アイヌ,沖縄出身者.この中で「普通の日本人」と同じ民族に属するのは誰だろう.必ずしも一義的に決められない.となれば「日本人」石原慎太郎が,ルーツは韓国だが日本で国会議員にまで上り詰めた「日本国籍を持つ」新井将敬を「朝鮮人」と名指ししたように,為政者や差別主義者が「民族」概念を自分の都合でいいように伸縮するしようとするのは目に見えている.
個人的には,本書と,小熊英二『日本人の境界』あたりを併読することを勧めたい.そうすれば本書の「アラ」がよりくっきりと見えてくるだろう.
2002年8月17日に日本でレビュー済み
筆者は現代の国際政治をアイデンティティゲームとして捉えている。この動きの中心として筆者が強調するのは政治的なナショナリズムではなく、文化的なパトリオティズムである。確かに教科書問題などで「日本とはどのような国か」という問題が提起されていることなどは筆者の視点に一定の根拠を与えているものと思える。しかし、私達は「日本人である」ことの意味をまだ見出せていないのではないかと思う。たとえば、ワールドカップで見られた「ニッポン」コールが筆者の言うようなパトリオティズムであるとは私には思えないし、当然ナショナリズムの発露だとも考えられない。むしろ、あれはほとんどの人にとって「お祭り」だったのだと思う。多くの人が「ニッポン」と叫んでいたが、その中身を考えた人はいないだろう。あれは多分お神輿のようなものなんだと思う。ワールドカップの熱狂の後にその熱狂を考えてみようと思っていたところで読んだため、こんな感想になってしまったが、案外私達にとって日本とは近いようで遠い抽象的な存在なのかもしれないと感じた。 本書のないように多少触れると、筆者は様々な歴史的事実を挙げ、日本のナショナリズムやパトリオティズムの形成過程を論じているが、少し強引な部分があるところは否めないだろう。視点は確かに面白いが、物足りなさを感じた。