「日中戦争全史」(笠原十九司著)読了しました。
この国は誰が動かしているのか,リーダーに世界の動きは見えているのか。
この国はごく一部の者が動かしており,そのごく一部の者には世界の動きが全然見えておらず,もっぱらの関心は自分の出世と自分が所属する組織の存続と身内やお友達のことだけ。
自分とお友達だけを大切にして世界に目を向けようとしない者がリーダーとなり,国を動かした結果があの「アジア太平洋戦争」。
あの戦争はいつ始まったのかと聞かれて,明確に答えられる人はいるでしょうか。
1941年(昭和16年)12月8日か?
これは日本海軍がハワイ真珠湾の米艦隊を攻撃した日であって,それ以前からずっと日本は戦争をしていました。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件か。
でも,なぜ,その時,日本の軍隊が外国である中国の首都北京に駐留し軍事演習をしていたのか。
1931年(昭和6年)9月18日の満州事変か。
何で日本の軍隊は鉄道爆破の自作自演で戦争を仕掛けたのか。なぜ戦争という言葉を使わず事変というのか。
そもそも,何でこの時中国東北部に日本の軍隊が駐留しているのか。
いつ始まったかもわからない,誰が始めたかもわからない,なんのためなのかもわからない長い長い戦争をわが国は行った。
この本では,1915年(大正4年)の対華21ヵ条要求から1945年(昭和20年)の日本降伏までの30年を描きます。もっと言えば,1894年(明治27年)から1945年までの半世紀,日本は戦争ばかりしていました。
殺し合いに作法なんてありませんが,大和魂,サムライといった言葉とは逆に,日本軍は謀略や奇襲,虐殺ばかりを行い,ひとつも正々堂々とした闘いをしていません。
闘う意欲を失い武器も持たない捕虜を殺して自慢する
宣戦布告もせずに奇襲をして最初だけ勝って,あとのことは考えない
力じゃ勝てないので毒ガスや毒薬を使う
頭でっかちのエリートの机上の作戦で多くの兵が無駄死にするのに,そのエリートはどんどん出世していく。
その典型が辻政信。辻は「作戦の神様」などともてはやされたが、ノモンハン事件、ガダルカナル島の戦いなど実情を無視した机上のゲームで無為に人命を消費した。敗戦後は戦犯追及を逃れるため潜伏。戦犯追求がされないと分かると表舞台に登場、立候補し自民党議員として衆議院4期、参議院1期。参議院議員の時ラオスで行方不明。以後不明。
先日,NHKの番組でノモンハン事件(戦争)について辻の二男がインタビューに応じていましたが,その方は,当時辻は少佐にすぎなかった,その上には大佐も大将もいるんだから責任は彼らに問うべきだと。
その行き着く先は神聖不可侵な天皇。だから偉い人は誰も責任を取らないで良いシステム。
人の命をゲームのコマのように弄んで数百〜数千万人を殺しても責任を問われず出世し,戦後は国会議員にすらなれる国。
本当この国が嫌になります。
この本,全史という性格上,徐州作戦や南京事件といった個別のテーマについては深く掘り下げて論じるというものではありません。
ただ,この戦争の流れや,その中で,誰が得をしていったのか,どういった人たちが決めていったのかなど歴史全体の流れを知るには最適の本だと思います。
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日中戦争全史 上巻 単行本 – 2017/7/18
笠原 十九司
(著)
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日中全面戦争から80年――。対華21カ条要求からアジア太平洋戦争敗戦までの全体像を日本・中国・欧米の資料を駆使して叙述した大作!!
日中全面戦争とはどのような戦争だったのか?
1937(昭和12年)年の盧溝橋事件から始まった日中全面戦争は、41(昭和16年)年に始まったアジア太平洋戦争の中に包摂され、“主戦場"は太平洋戦域に移ったという認識が定着している。
しかし、多くの日本人は、中国大陸には宣戦布告もせずに百万の軍隊を送り込み、長期にわたる無差別戦略爆撃、国際法違反の生物兵器や毒ガス兵器を用いた化学戦を繰り広げた歴史事実を知らず、
41年の対英米戦争が始まって以降の中国戦線への認識が欠落している。
本書の特徴は、これまでの歴史書にない海軍の謀略、宣戦布告無しの爆撃など海軍の動きを克明に記述。
日中全面戦争とアジア太平洋戦争を関連づけて全体像を描くために、日中戦争研究の第一人者である著者が10年を費やし描いた労作である。
日中戦争80年の節目の今年、ぜひ読んでもらいた日中戦争全史!
日中全面戦争とはどのような戦争だったのか?
1937(昭和12年)年の盧溝橋事件から始まった日中全面戦争は、41(昭和16年)年に始まったアジア太平洋戦争の中に包摂され、“主戦場"は太平洋戦域に移ったという認識が定着している。
しかし、多くの日本人は、中国大陸には宣戦布告もせずに百万の軍隊を送り込み、長期にわたる無差別戦略爆撃、国際法違反の生物兵器や毒ガス兵器を用いた化学戦を繰り広げた歴史事実を知らず、
41年の対英米戦争が始まって以降の中国戦線への認識が欠落している。
本書の特徴は、これまでの歴史書にない海軍の謀略、宣戦布告無しの爆撃など海軍の動きを克明に記述。
日中全面戦争とアジア太平洋戦争を関連づけて全体像を描くために、日中戦争研究の第一人者である著者が10年を費やし描いた労作である。
日中戦争80年の節目の今年、ぜひ読んでもらいた日中戦争全史!
- 本の長さ320ページ
- 言語日本語
- 出版社高文研
- 発売日2017/7/18
- 寸法21 x 15 x 2.5 cm
- ISBN-104874986242
- ISBN-13978-4874986240
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商品の説明
出版社からのコメント
本書(上巻)の大きな特徴は、従来、日中戦争を主導したのは日本陸軍であったという「陸軍悪玉説」を覆した点にあります。
中国に対する侵略戦争(山東出兵・張作霖爆殺・満州事変など)を仕掛け、泥沼の日中戦争を主導したのは陸軍であったという「定説」に対して、
著者は盧溝橋事件を奇貨として、日本海軍が戦火を上海に飛び火させるために仕掛けた謀略・大山事件、つづいて宣戦布告なしに南京渡洋爆撃を行った事実に着目、満州事変以降、莫大な臨時軍事費を獲得した陸軍同様、
自らの軍備拡張をもくろんで中国侵略の先頭に立ったのは日本海軍であることを実証しました。
そして、日本海軍は日中戦争を、対米戦争を念頭に置いて、軍備拡張のための予算獲得、長距離爆撃機やゼロ戦を開発するための絶好の実戦訓練の場としたことです。
この事実を、南京事件をはじめとする日中戦争の諸相を長年研究してきた著者が、日本・中国・欧米の史料を駆使して明らかにしたのが本書です。
中国に対する侵略戦争(山東出兵・張作霖爆殺・満州事変など)を仕掛け、泥沼の日中戦争を主導したのは陸軍であったという「定説」に対して、
著者は盧溝橋事件を奇貨として、日本海軍が戦火を上海に飛び火させるために仕掛けた謀略・大山事件、つづいて宣戦布告なしに南京渡洋爆撃を行った事実に着目、満州事変以降、莫大な臨時軍事費を獲得した陸軍同様、
自らの軍備拡張をもくろんで中国侵略の先頭に立ったのは日本海軍であることを実証しました。
そして、日本海軍は日中戦争を、対米戦争を念頭に置いて、軍備拡張のための予算獲得、長距離爆撃機やゼロ戦を開発するための絶好の実戦訓練の場としたことです。
この事実を、南京事件をはじめとする日中戦争の諸相を長年研究してきた著者が、日本・中国・欧米の史料を駆使して明らかにしたのが本書です。
著者について
1944 年群馬県生まれ。最終学歴:東京教育大学大学院修士課程 文学研究科東洋史学専攻 中退。学位:学術博士(東京大学)。
職位:都留文科大学名誉教授。専門分野:中国近現代史、日中関係史、東アジア国際関係史。
主な著書:『南京事件』(岩波新書、1997 年)、『日中全面戦争と海軍─パナイ号事件の真相』(青木書店、1997 年)、『南京難民区の百日』(岩波現代文庫、2005 年)、『体験者27 人が語る南京事件』(高文研、2006 年)、『日本軍の治安戦』(岩波書店、2010 年)、『海軍の日中戦争─アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社、2015 年)など。
職位:都留文科大学名誉教授。専門分野:中国近現代史、日中関係史、東アジア国際関係史。
主な著書:『南京事件』(岩波新書、1997 年)、『日中全面戦争と海軍─パナイ号事件の真相』(青木書店、1997 年)、『南京難民区の百日』(岩波現代文庫、2005 年)、『体験者27 人が語る南京事件』(高文研、2006 年)、『日本軍の治安戦』(岩波書店、2010 年)、『海軍の日中戦争─アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社、2015 年)など。
登録情報
- 出版社 : 高文研 (2017/7/18)
- 発売日 : 2017/7/18
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 320ページ
- ISBN-10 : 4874986242
- ISBN-13 : 978-4874986240
- 寸法 : 21 x 15 x 2.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 126,143位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 146位日中・太平洋戦争
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年12月29日に日本でレビュー済み
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2022年7月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
全編「日本は悪の侵略者で中国は無垢な被害者」というイデオロギーで凝り固まっている。冒頭から鼻息を荒げて「戦争は殺戮行為」みたいな話を繰り返すが、主義主張を唱えるのに夢中になるあまり「事実を詳細に、客観的に述べる」という歴史書で一番肝心なことがおろそかになってしまっている。そのため本がぶ厚いわりに内容が薄い。「すこし落ち着け」と言いたい。
筆者は近代中国史の専門家らしいが、おそらく近代中国史に「だけ」詳しく、ほかの国や時代についてはごく初歩的な知識すらあやしいと思われる。韓国併合は韓国側から希望されたことであることすら知らないようだ。
万事「日本は悪、中国は被害者」という結論ありきで、諸説ある問題についても、結論に沿った説のみを採用し、都合の悪い説は無視してしまっている(例 尼港事件の発端、盧溝橋事件の発端)。
べつに日本を悪といおうが構わないのだが、それならそれで「事実を詳細に、客観的に述べる」ことをした上で、きちんと論証を積み上げていくべきである。感情論でわめき散らすだけでは説得力がない。
二冊分冊にしてここまで内容が薄く、値段が高いことにビックリ。そこらの新書でもこれよりは内容がある。
筆者は近代中国史の専門家らしいが、おそらく近代中国史に「だけ」詳しく、ほかの国や時代についてはごく初歩的な知識すらあやしいと思われる。韓国併合は韓国側から希望されたことであることすら知らないようだ。
万事「日本は悪、中国は被害者」という結論ありきで、諸説ある問題についても、結論に沿った説のみを採用し、都合の悪い説は無視してしまっている(例 尼港事件の発端、盧溝橋事件の発端)。
べつに日本を悪といおうが構わないのだが、それならそれで「事実を詳細に、客観的に述べる」ことをした上で、きちんと論証を積み上げていくべきである。感情論でわめき散らすだけでは説得力がない。
二冊分冊にしてここまで内容が薄く、値段が高いことにビックリ。そこらの新書でもこれよりは内容がある。
2017年9月18日に日本でレビュー済み
『戦争にはかならず「前史」と「前夜」がある。戦争はある日突然偶発的に不可抗力的に起こるものではない。』この本の最大の目的は、戦争の前史はどのように形成され、いつ頃戦争勃発回避が不可能な状態になったのかを解き明かし、それを回避する知恵を国民が身につけることにあるとする。
読み終えた感想として、目的の第二に、戦争体験を持たない世代が圧倒的多数となった現在、日中戦争はどのような戦争だったのかを中国大陸の日中双方の記録と体験証言に基づき再現し、その卑劣な実態を知ることで戦争を二度と起こさないようにすること。更には目的の第三に、戦争はどのように進められたのかについて、戦争に至る意志決定の経過、作戦決定とその執行経緯と実態を明らかにすることで国策決定者の恣意的な権力執行と責任不問が表裏になる構造を亡国の極みとして再現させないことにあるように思えてならない。
以下、論旨を紹介する。
1)前史と前夜へ向かう転換点はいつか?
前史の開始を1915年の「対華21ヶ条要求の強要」と捉え、満州事変の前史を1918年のシベリア出兵とし、前夜に向かう転換点を1928年とする。著者はシベリア出兵を利用して改組発足したある部隊がその後どのような役割を果たしかに着目する。注目すべきは尼港事件の役割という。1928年の年表を紐解くと、以下の事象が列挙されている。普選実施、三一五事件、第二次山東出兵、済南事件、張作霖爆破(皇姑屯:こうことん)事件、治安維持法改正、パリ不戦条約調印、張学良による易幟(えきし)である。この年のもつ意味を実感できるかと思う。中国の抗日戦争に関する著作も、皇姑屯事件から説き起こしていることを思い出した。
当時21ヶ条要求の外交文書では、辛亥革命で建国された中華民国公使であった伊集院彦吉の進言で、「中華民国」「中国」という呼称を使わず、「支那」と呼称するに決定し、中国側の要請する「中華民国」呼称を拒否したという。またその後の「満蒙開拓団」の先駆となる在郷軍人会による「満州武装移民団」は、張作霖爆破のスイッチを押した独立守備隊(鉄道警備隊)中隊長の東宮鉄男によって構想されたという。
皇姑屯事件は、河本大作大佐が仕組んだものであり、張作霖を殺害したのは、国民党軍の仕業として、南満州を占領しようとして計画されたものであり、この策略は1931年の柳条湖事件で再現され、日中戦争に至る15年戦争への起点となった。
2)日中戦争はどんな戦争か?
これまで日中戦争をその起点である1931年9月18日柳条湖事件から1945年9月9日南京における降伏署名と降伏命令までの通史を扱った著作はない。とりわけ日本では、日中戦争期間では、南京陥落までの記述は多いが、その後の中国戦区の実態、とりわけ1941年12月アジア太平洋戦争のマレー・真珠湾戦の開始以降は、対米戦争を中心とする記述が主であり、中国戦区の推移と実態はほとんど知られていないに等しい。この著作の異彩を放つ所以である。
その異彩とは以下の5つである。
① 日中戦争は、中国一撃論に代表される膺懲(懲らしめること)で相手を恐怖に陥れ、妥協と譲歩をせまり、利権と収奪をほしいままにする傀儡政権づくりにその本質があったこと。
② 日中戦争は、軍備予算獲得と対米戦争準備のために行われた謀略と責任逃れに終始する海軍に負うところが大きく、対米開戦の直接的起因である南進策としての南部仏印侵攻とマレー真珠湾作戦は、海軍主導による開戦であったこと。
③ 日中戦争は、アジア太平洋戦争の開始に伴い、その性格が根本的に変化し、開戦後4ヶ月後の1942年4月18日に発生する東京をはじめとする日本横断の空襲を契機に皇居への爆撃に驚愕し、中国戦区を日本の戦争遂行のための兵站基地として維持することを主目的とする作戦に変更されたこと。
④ 日中戦争は、国民党軍と共産党軍の二つの戦場における戦闘が余儀なくされ、対米開戦後は、経済制裁に伴う物資確保を目的とする収奪と徴発のために、対日抗戦区(共産党支配地域)への「治安戦」と称する細菌戦と毒ガス使用を含む三光作戦を強行したこと。
⑤ 日中戦争は、その泥沼的戦線拡大に伴う打開策としての自存自衛のために南進政策を選択したが、それが米英と中国の軍事同盟を発起させ、1942年1月1日の連合国26カ国による「連合国共同宣言」を生み出し、日本と中国との戦争から日本と連合国との戦争の一部としての「中国戦区」となったこと。日本の勝ち目が失われ、中国の負けが回避されたこと。
海軍による渡洋爆撃と重慶など中国主要都市への爆撃は、なぜ必要であったのか、三光作戦とはどのような作戦だったのか、その実態はどのようなものだったのか、細菌毒ガス戦でなぜ日本兵をもその被害者とならざるをえなかったのか、皇居への空襲を恐れて対米開戦の後に行われた最大の作戦とはどのような作戦だったのか、日中戦争の最大規模の作戦と言われる「大陸打通作戦」とは何のための、どのような作戦だったのかを体験者による証言を交えて、詳細に記述されている。
3)戦争はどのように進められたのか?
日中戦争の開始からその終焉に至るまでの日本の戦争と個々の作戦に関する意志決定は、一貫して共通するプロセスがある。作戦発動は、事件の捏造と謀略によるものであり、常に邦人保護を名目にした作戦であったことである。
同時に作戦決定プロセスは、日本の軍隊が天皇と参謀本部のもとに一糸乱れぬ統制と規律による上意下達の組織とのイメージをもつ。たしかに、戦場における戦闘場面では、天皇のために死ぬことを下命する戦陣訓に代表される上意下達として貫徹されるが、日本における参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)における作戦策定及びその執行のプロセスは、その様相をまったく異にする。
それは、日本の軍隊が天皇が統帥権(所有する)をもつ皇軍として成立し、その帷幕としての参謀本部と軍令部が作戦を立て、天皇が皇軍に下命する体系にあったことに起因する。つまり責任は天皇がもつはずであるが、明治憲法は、天皇を「統治権の総攬者」=絶対的権力者としたことで、だれも責任を負うことがなく、処分されても、又結果が不全であっても、再び復職、昇進して新たな職務を担うという人事が繰り返されたことである。
その事例をあげれば、以下の通りである。
① 張作霖爆破(奉天市)事件(1928年6月4日)
首謀者:関東軍高級参謀河本大作。田中義一首相は、事件が日本軍の仕業との確かな証拠をもち、河本を軍法会議で厳格な処分をすると天皇に上奏するとしたが、陸軍首脳の反対をうけて、行政処分のみとした。天皇の逆鱗にふれた田中義一は総辞職し、二ヶ月後に狭心症で死亡。河本は参謀職を解任されたが、参謀本部に勤務、4ヶ月後に就任する石原莞爾と作戦計画づくりに参加する。
② 柳条湖(奉天市)事件(満州事変:1931年9月18日)
首謀者:関東軍高級参謀石原莞爾。満鉄路線爆破後張学良の東北辺防軍北大営を襲撃、旅順にあった関東軍司令部を19日朝に奉天(現瀋陽)に移動し、在鮮二個師団を増派した。若槻内閣は、不拡大方針を決定し、関東軍司令官に通達したが、石原らは、居留民保護を目的に吉林へ出兵する。林朝鮮軍司令官はこれに呼応して、天皇の勅令をえることなく、越境させた。奉天、吉林占領は陸軍中央の統制違反であり、越境は統帥権侵犯であったが、閣議決定が不可欠な出兵経費も裁可もされ、まったく処分されることがなかった。
③ 第一次上海事件(1932年1月18日)
首謀者:関東軍高級参謀板征四郎。国際連盟による「満州国」建国への注目を反らすために僧侶を襲撃死亡させて、日本人に武装させて、中国官憲との衝突事件とさせた。板垣らは、32年3月1日満州国を樹立させた。この事件は戦後上海駐在日本公使館付き武官田中隆吉と川島芳子らであることが判明した。
④ 盧溝橋事件(1937年7月7日)
戦線拡大首謀者:武藤彰参謀本部作戦課長、牟田口廉也支那駐屯軍歩兵第一連隊長。日本軍伝令が方向を誤って中国側陣地に発砲したことを契機に行方不明者の捜索に出かけた日本軍を中国側陣地付近の中国軍が射撃した事件。牟田口らは、この射撃を「不法射撃」として中国軍を膺懲するために攻撃命令を下す。一旦停戦協定が成立したが、武藤彰らは、これを「ゆかいなことが起こったね」として事件の拡大を画策した。参謀本部の石原莞爾は、事件の不拡大と現地解決を図ったが、部下の武藤彰から、反対する石原を「私はあなたが満州事変でやったことをやっているだけですよ」と反論し、7月28日に総攻撃を開始し、北支事変(後に支那事変)が日中全面戦争への起点となった。牟田口廉也とはその後の悲惨な作戦指揮をしたインパール作戦の第15軍司令官である。
⑤ 第二次上海事件(1937年8月13)淞沪会戦(しょうこかいせん)
首謀者:海軍第三艦隊司令長官長谷川清中将、上海特別陸戦隊司令官大川内伝七少将。犠牲者:大山勇男中尉。8月9日夕方、上海陸戦隊派遣本部から虹橋飛行場の中国軍防衛施設にむけて偵察と称して軍用車を走らせ、中国軍からの反撃を前提に、阻止線を突破し、銃撃をうけて、運転手とともに死亡(大山事件:中国側虹橋机場事件)。海軍は、このような事件を根絶させると称して、上海の中国軍防衛施設の撤去と中国保安隊の縮小と駐屯地の制限を要求。13日海軍陸戦隊と中国軍が日本人租界「虹口(こうこう)」で開戦する。大山勇男中尉は上記海軍司令官からの決死視察を密命されたという。
⑥ 南京攻略戦進軍決定(1937年11月15日)
首謀者:松井石根中支那方面軍司令官、柳川平助第10軍司令長官、武藤彰参謀本部作戦課長。上海事変は開戦後3ヶ月経っても膠着する苦戦を強いられたが、11月上旬に上海背後の抗州湾からの援軍(第10軍)と上海派遣軍の増派(第16師団)で打開し、11月中旬に戦闘は終結した。所期の目的を達した作戦だったが、第10軍は、11月15日に南京進軍を決定し19日に進軍を開始した。これに対して、参謀本部は、中支那軍参謀長あてに「作戦指示範囲を逸脱している」と打電した。24日開催された天皇臨席の第1回大本営御前会議にて参謀本部作戦部長から、参謀次長を出し抜いて「現地軍の態勢が可能ならば、南京攻略を考慮する」との発言があり、この発言への異論がなかったとして、南京進軍を決定したという。南京への進軍過程及び陥落の南京大虐殺は、11月上旬に上海戦に参戦した第10軍と第16師団の担った役割が大きいと言われる。
⑦ ノモンハン戦争(1939年5月11日〜9月15日) モンゴル側:「ハルハ河戦争」
首謀者:関東軍司令官植田謙大将、関東軍参謀辻作戦課長服部四郎、関東軍参謀辻政信少佐。ノモンハン戦争は日本では、「事件」とされるが、4ヶ月に渡る戦争である。ノモンハン戦争は、満州国とソ連の沿海州側の国境紛争である「張鼓峰事件」の敗北を経て、モンゴル側の国境紛争地であったノモンハンを舞台に沿海州側の敗北のリベンジ作戦として計画された。第一次戦争は、第23師団の東支隊と山形支隊が作戦に当たったが、東支隊はほぼ全滅、山形支隊も撤退を余儀なくされた。第二次戦争は、関東軍第二航空隊100機を使う失地回復戦として、6月27日にモンゴル側ハルハ河背後の航空基地空爆で開戦する。この空爆は国境を越えた爆撃であり、参謀本部は、関東軍参謀長宛に事前連絡のない作戦であり、爆撃中止を下命した。しかし関東軍参謀辻は、独断で司令長官名を名乗り「当軍を信頼し安心さられたく」と打電したという。再三の中止命令を無視して作戦を継続する関東軍に対して、ソ連は8月20日航空機500機による総攻撃を開始し、第23師団は壊滅したが、関東軍は、さらに関東軍の主力師団を結集し、ソ連との決戦を挑んだという。大本営は、ソ連との全面戦争を回避するために、参謀本部参謀次長を関東軍に送り、停戦させる措置をとったという。
ノモンハン戦争の敗北で関東軍司令官参謀ら幹部は、解任され予備役に編入されたが、作戦参謀だった服部と辻らは一旦外されたのちに、参謀本部の作戦課長と班長に返り咲き、ノモンハン戦争の敗北経験から北進派から南進派に転向し、アジア太平洋戦争の推進者となったという。
⑧ 浙贛(せっかん)作戦(「せ」号作戦:中国江西省):42年5月13日〜9月30日
首謀者:関東軍参謀辻作戦課長服部四郎大佐、関東軍参謀辻政信中佐。日本本土空襲と皇居爆撃を恐れた大本営は、42年4月開始予定の19号作戦計画を変更し、B25の中国帰着地となった江西省の衢州・麗水、玉山の飛行場を破壊する作戦に変更した。現地軍司令官を無視した作戦変更は、現場の戦闘士気を削ぐものとなったという。
上記の事例は最も代表的なものであるが、日中戦争における主要な作戦に他ならない。日本の戦争と軍隊とはどのようなものだったかを知ることは極めて重要である。戦争とは一体なにか、戦争はどのように開始されるのかを知ることが不可欠である。起きてしまってからでは遅すぎるからである。
戦争はひとりでに起こるものではない。起こそうとする者の存在があって初めて起きるのだということを肝に命じたい。
読み終えた感想として、目的の第二に、戦争体験を持たない世代が圧倒的多数となった現在、日中戦争はどのような戦争だったのかを中国大陸の日中双方の記録と体験証言に基づき再現し、その卑劣な実態を知ることで戦争を二度と起こさないようにすること。更には目的の第三に、戦争はどのように進められたのかについて、戦争に至る意志決定の経過、作戦決定とその執行経緯と実態を明らかにすることで国策決定者の恣意的な権力執行と責任不問が表裏になる構造を亡国の極みとして再現させないことにあるように思えてならない。
以下、論旨を紹介する。
1)前史と前夜へ向かう転換点はいつか?
前史の開始を1915年の「対華21ヶ条要求の強要」と捉え、満州事変の前史を1918年のシベリア出兵とし、前夜に向かう転換点を1928年とする。著者はシベリア出兵を利用して改組発足したある部隊がその後どのような役割を果たしかに着目する。注目すべきは尼港事件の役割という。1928年の年表を紐解くと、以下の事象が列挙されている。普選実施、三一五事件、第二次山東出兵、済南事件、張作霖爆破(皇姑屯:こうことん)事件、治安維持法改正、パリ不戦条約調印、張学良による易幟(えきし)である。この年のもつ意味を実感できるかと思う。中国の抗日戦争に関する著作も、皇姑屯事件から説き起こしていることを思い出した。
当時21ヶ条要求の外交文書では、辛亥革命で建国された中華民国公使であった伊集院彦吉の進言で、「中華民国」「中国」という呼称を使わず、「支那」と呼称するに決定し、中国側の要請する「中華民国」呼称を拒否したという。またその後の「満蒙開拓団」の先駆となる在郷軍人会による「満州武装移民団」は、張作霖爆破のスイッチを押した独立守備隊(鉄道警備隊)中隊長の東宮鉄男によって構想されたという。
皇姑屯事件は、河本大作大佐が仕組んだものであり、張作霖を殺害したのは、国民党軍の仕業として、南満州を占領しようとして計画されたものであり、この策略は1931年の柳条湖事件で再現され、日中戦争に至る15年戦争への起点となった。
2)日中戦争はどんな戦争か?
これまで日中戦争をその起点である1931年9月18日柳条湖事件から1945年9月9日南京における降伏署名と降伏命令までの通史を扱った著作はない。とりわけ日本では、日中戦争期間では、南京陥落までの記述は多いが、その後の中国戦区の実態、とりわけ1941年12月アジア太平洋戦争のマレー・真珠湾戦の開始以降は、対米戦争を中心とする記述が主であり、中国戦区の推移と実態はほとんど知られていないに等しい。この著作の異彩を放つ所以である。
その異彩とは以下の5つである。
① 日中戦争は、中国一撃論に代表される膺懲(懲らしめること)で相手を恐怖に陥れ、妥協と譲歩をせまり、利権と収奪をほしいままにする傀儡政権づくりにその本質があったこと。
② 日中戦争は、軍備予算獲得と対米戦争準備のために行われた謀略と責任逃れに終始する海軍に負うところが大きく、対米開戦の直接的起因である南進策としての南部仏印侵攻とマレー真珠湾作戦は、海軍主導による開戦であったこと。
③ 日中戦争は、アジア太平洋戦争の開始に伴い、その性格が根本的に変化し、開戦後4ヶ月後の1942年4月18日に発生する東京をはじめとする日本横断の空襲を契機に皇居への爆撃に驚愕し、中国戦区を日本の戦争遂行のための兵站基地として維持することを主目的とする作戦に変更されたこと。
④ 日中戦争は、国民党軍と共産党軍の二つの戦場における戦闘が余儀なくされ、対米開戦後は、経済制裁に伴う物資確保を目的とする収奪と徴発のために、対日抗戦区(共産党支配地域)への「治安戦」と称する細菌戦と毒ガス使用を含む三光作戦を強行したこと。
⑤ 日中戦争は、その泥沼的戦線拡大に伴う打開策としての自存自衛のために南進政策を選択したが、それが米英と中国の軍事同盟を発起させ、1942年1月1日の連合国26カ国による「連合国共同宣言」を生み出し、日本と中国との戦争から日本と連合国との戦争の一部としての「中国戦区」となったこと。日本の勝ち目が失われ、中国の負けが回避されたこと。
海軍による渡洋爆撃と重慶など中国主要都市への爆撃は、なぜ必要であったのか、三光作戦とはどのような作戦だったのか、その実態はどのようなものだったのか、細菌毒ガス戦でなぜ日本兵をもその被害者とならざるをえなかったのか、皇居への空襲を恐れて対米開戦の後に行われた最大の作戦とはどのような作戦だったのか、日中戦争の最大規模の作戦と言われる「大陸打通作戦」とは何のための、どのような作戦だったのかを体験者による証言を交えて、詳細に記述されている。
3)戦争はどのように進められたのか?
日中戦争の開始からその終焉に至るまでの日本の戦争と個々の作戦に関する意志決定は、一貫して共通するプロセスがある。作戦発動は、事件の捏造と謀略によるものであり、常に邦人保護を名目にした作戦であったことである。
同時に作戦決定プロセスは、日本の軍隊が天皇と参謀本部のもとに一糸乱れぬ統制と規律による上意下達の組織とのイメージをもつ。たしかに、戦場における戦闘場面では、天皇のために死ぬことを下命する戦陣訓に代表される上意下達として貫徹されるが、日本における参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)における作戦策定及びその執行のプロセスは、その様相をまったく異にする。
それは、日本の軍隊が天皇が統帥権(所有する)をもつ皇軍として成立し、その帷幕としての参謀本部と軍令部が作戦を立て、天皇が皇軍に下命する体系にあったことに起因する。つまり責任は天皇がもつはずであるが、明治憲法は、天皇を「統治権の総攬者」=絶対的権力者としたことで、だれも責任を負うことがなく、処分されても、又結果が不全であっても、再び復職、昇進して新たな職務を担うという人事が繰り返されたことである。
その事例をあげれば、以下の通りである。
① 張作霖爆破(奉天市)事件(1928年6月4日)
首謀者:関東軍高級参謀河本大作。田中義一首相は、事件が日本軍の仕業との確かな証拠をもち、河本を軍法会議で厳格な処分をすると天皇に上奏するとしたが、陸軍首脳の反対をうけて、行政処分のみとした。天皇の逆鱗にふれた田中義一は総辞職し、二ヶ月後に狭心症で死亡。河本は参謀職を解任されたが、参謀本部に勤務、4ヶ月後に就任する石原莞爾と作戦計画づくりに参加する。
② 柳条湖(奉天市)事件(満州事変:1931年9月18日)
首謀者:関東軍高級参謀石原莞爾。満鉄路線爆破後張学良の東北辺防軍北大営を襲撃、旅順にあった関東軍司令部を19日朝に奉天(現瀋陽)に移動し、在鮮二個師団を増派した。若槻内閣は、不拡大方針を決定し、関東軍司令官に通達したが、石原らは、居留民保護を目的に吉林へ出兵する。林朝鮮軍司令官はこれに呼応して、天皇の勅令をえることなく、越境させた。奉天、吉林占領は陸軍中央の統制違反であり、越境は統帥権侵犯であったが、閣議決定が不可欠な出兵経費も裁可もされ、まったく処分されることがなかった。
③ 第一次上海事件(1932年1月18日)
首謀者:関東軍高級参謀板征四郎。国際連盟による「満州国」建国への注目を反らすために僧侶を襲撃死亡させて、日本人に武装させて、中国官憲との衝突事件とさせた。板垣らは、32年3月1日満州国を樹立させた。この事件は戦後上海駐在日本公使館付き武官田中隆吉と川島芳子らであることが判明した。
④ 盧溝橋事件(1937年7月7日)
戦線拡大首謀者:武藤彰参謀本部作戦課長、牟田口廉也支那駐屯軍歩兵第一連隊長。日本軍伝令が方向を誤って中国側陣地に発砲したことを契機に行方不明者の捜索に出かけた日本軍を中国側陣地付近の中国軍が射撃した事件。牟田口らは、この射撃を「不法射撃」として中国軍を膺懲するために攻撃命令を下す。一旦停戦協定が成立したが、武藤彰らは、これを「ゆかいなことが起こったね」として事件の拡大を画策した。参謀本部の石原莞爾は、事件の不拡大と現地解決を図ったが、部下の武藤彰から、反対する石原を「私はあなたが満州事変でやったことをやっているだけですよ」と反論し、7月28日に総攻撃を開始し、北支事変(後に支那事変)が日中全面戦争への起点となった。牟田口廉也とはその後の悲惨な作戦指揮をしたインパール作戦の第15軍司令官である。
⑤ 第二次上海事件(1937年8月13)淞沪会戦(しょうこかいせん)
首謀者:海軍第三艦隊司令長官長谷川清中将、上海特別陸戦隊司令官大川内伝七少将。犠牲者:大山勇男中尉。8月9日夕方、上海陸戦隊派遣本部から虹橋飛行場の中国軍防衛施設にむけて偵察と称して軍用車を走らせ、中国軍からの反撃を前提に、阻止線を突破し、銃撃をうけて、運転手とともに死亡(大山事件:中国側虹橋机場事件)。海軍は、このような事件を根絶させると称して、上海の中国軍防衛施設の撤去と中国保安隊の縮小と駐屯地の制限を要求。13日海軍陸戦隊と中国軍が日本人租界「虹口(こうこう)」で開戦する。大山勇男中尉は上記海軍司令官からの決死視察を密命されたという。
⑥ 南京攻略戦進軍決定(1937年11月15日)
首謀者:松井石根中支那方面軍司令官、柳川平助第10軍司令長官、武藤彰参謀本部作戦課長。上海事変は開戦後3ヶ月経っても膠着する苦戦を強いられたが、11月上旬に上海背後の抗州湾からの援軍(第10軍)と上海派遣軍の増派(第16師団)で打開し、11月中旬に戦闘は終結した。所期の目的を達した作戦だったが、第10軍は、11月15日に南京進軍を決定し19日に進軍を開始した。これに対して、参謀本部は、中支那軍参謀長あてに「作戦指示範囲を逸脱している」と打電した。24日開催された天皇臨席の第1回大本営御前会議にて参謀本部作戦部長から、参謀次長を出し抜いて「現地軍の態勢が可能ならば、南京攻略を考慮する」との発言があり、この発言への異論がなかったとして、南京進軍を決定したという。南京への進軍過程及び陥落の南京大虐殺は、11月上旬に上海戦に参戦した第10軍と第16師団の担った役割が大きいと言われる。
⑦ ノモンハン戦争(1939年5月11日〜9月15日) モンゴル側:「ハルハ河戦争」
首謀者:関東軍司令官植田謙大将、関東軍参謀辻作戦課長服部四郎、関東軍参謀辻政信少佐。ノモンハン戦争は日本では、「事件」とされるが、4ヶ月に渡る戦争である。ノモンハン戦争は、満州国とソ連の沿海州側の国境紛争である「張鼓峰事件」の敗北を経て、モンゴル側の国境紛争地であったノモンハンを舞台に沿海州側の敗北のリベンジ作戦として計画された。第一次戦争は、第23師団の東支隊と山形支隊が作戦に当たったが、東支隊はほぼ全滅、山形支隊も撤退を余儀なくされた。第二次戦争は、関東軍第二航空隊100機を使う失地回復戦として、6月27日にモンゴル側ハルハ河背後の航空基地空爆で開戦する。この空爆は国境を越えた爆撃であり、参謀本部は、関東軍参謀長宛に事前連絡のない作戦であり、爆撃中止を下命した。しかし関東軍参謀辻は、独断で司令長官名を名乗り「当軍を信頼し安心さられたく」と打電したという。再三の中止命令を無視して作戦を継続する関東軍に対して、ソ連は8月20日航空機500機による総攻撃を開始し、第23師団は壊滅したが、関東軍は、さらに関東軍の主力師団を結集し、ソ連との決戦を挑んだという。大本営は、ソ連との全面戦争を回避するために、参謀本部参謀次長を関東軍に送り、停戦させる措置をとったという。
ノモンハン戦争の敗北で関東軍司令官参謀ら幹部は、解任され予備役に編入されたが、作戦参謀だった服部と辻らは一旦外されたのちに、参謀本部の作戦課長と班長に返り咲き、ノモンハン戦争の敗北経験から北進派から南進派に転向し、アジア太平洋戦争の推進者となったという。
⑧ 浙贛(せっかん)作戦(「せ」号作戦:中国江西省):42年5月13日〜9月30日
首謀者:関東軍参謀辻作戦課長服部四郎大佐、関東軍参謀辻政信中佐。日本本土空襲と皇居爆撃を恐れた大本営は、42年4月開始予定の19号作戦計画を変更し、B25の中国帰着地となった江西省の衢州・麗水、玉山の飛行場を破壊する作戦に変更した。現地軍司令官を無視した作戦変更は、現場の戦闘士気を削ぐものとなったという。
上記の事例は最も代表的なものであるが、日中戦争における主要な作戦に他ならない。日本の戦争と軍隊とはどのようなものだったかを知ることは極めて重要である。戦争とは一体なにか、戦争はどのように開始されるのかを知ることが不可欠である。起きてしまってからでは遅すぎるからである。
戦争はひとりでに起こるものではない。起こそうとする者の存在があって初めて起きるのだということを肝に命じたい。
2023年3月13日に日本でレビュー済み
☆1個の方たちの相も変らぬレビーの内容から、読む価値を感じました。
内外への嘘声明で始まった、満州事変~権益の自衛の為が領有へ。
満州国が民族自決の独立国でない日本の機密文書はいくつも残っています。
ただ基本書としては、私には長すぎます。著者の思いをもう少し多くの人に
伝えるために。
内外への嘘声明で始まった、満州事変~権益の自衛の為が領有へ。
満州国が民族自決の独立国でない日本の機密文書はいくつも残っています。
ただ基本書としては、私には長すぎます。著者の思いをもう少し多くの人に
伝えるために。
2017年7月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
二〇一七年七月二十日に発行されたこの本(上下)は今日二十日にカナダに届きました。
南京・重慶爆撃・広州市(広東ともいう)の占領(一九三八年十月二十一日)・毒ガス作戦も触れられています。
地図と写真も少なくないです。
広東語を話す私は「はじめに」のうち、十三~十五ページだけを読みましたので、コメントは以上です。
南京・重慶爆撃・広州市(広東ともいう)の占領(一九三八年十月二十一日)・毒ガス作戦も触れられています。
地図と写真も少なくないです。
広東語を話す私は「はじめに」のうち、十三~十五ページだけを読みましたので、コメントは以上です。
2024年5月7日に日本でレビュー済み
勧善懲悪歴史観の書。どこまでも日本人が極悪非道の鬼畜主の人種で、中国人が純朴善良の人民として描かれる。それで、中国の救い主は毛沢東を主席と仰ぐ中国共産党なのだが、中国共産党が殺戮した中国人の数は日本軍が殺戮した中国人の数をはるかに上回ることはまったく描かれない。どうすれば日本は悲惨な戦争に巻き込まれずに済んだのかという選択肢は考慮の外で、ひたすらに侵略の一本道を進むしかなかったと描かれる。
2018年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「統帥乱れて信を中外に失う」を繰り返した歴史--これは北部仏印進駐に際して西原一策が打った電文だが、大局観なく、派閥争い、予算獲得と覇権奪取に血道を上げた結果が招いたものは重い。本書は1945年まで続く中国大陸での日本軍の行動通史で上巻は対華21カ条要求から南京占領まで。夜郎自大、現場が暴走しても抑止出来ない。今風に言えば「組織統治」が行き届かない。事態に引き摺られていく。西原もまた組織の駒だが。筆致に軽い違和感を抱くものの、前段から全史を通観しようという1冊なので、長いうねりを概観するには好個の編年史。